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千代子冷凍工場の秘密  作者: 矢本MAX
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人の一生には、さまざまな分岐点があります。

その中のどれが決定的な分岐になるかは、誰にも解らないのです。

これからしばしの間、あなたの心はこの不思議な空間へと入って行くのです。

 8

 黒須賛太は、高校を卒業すると、東京の大学の文学部に進学した。

 推理作家になるという夢を心に秘めつつも、両親には、出版関係に就職するか、教員免許を取って、国語の教師になると説得して、文学部に進んだのだ。

 彼の胸にはいつも、高校二年の冬に亡くなった、同級生の広瀬千代子の面影があった。いつか、彼女をヒロインにした長篇本格推理小説を書いて、江戸川乱歩賞に応募しようと決めていた。

 大学ではミステリ同好会に入会し、会の同人誌に数篇の短篇小説を寄稿した。そのうち、少年時代にクラスメイトたちと街外れの廃工場に忍び込んだ思い出をベースにした「チョコレート工場の冒険」というジュヴナイル風ミステリが好評を博した。

 だが、楽しい日々はあんまり長くは続かなかった。

 二年生の冬に、父親が脳溢血で急死した。

 学業を続けたかったが、アルバイトだけで学費と生活費をまかなうことは不可能に近く、彼はひとりっ子だったので、郷里の母親の面倒も見なくてはならなかったので、大学を中退して実家に帰ることにした。特に大きく迷うことはなかった。そうするしかないと、わりと早い時期に決断した。

 運転免許を取得した後、親戚の伝手で近隣のチョコレート工場に入社した。

 あの日、千代子が彼のために用意していてくれたクリスマス・プレゼントは、手製のチョコレートだった。

 これも、彼女の導きかも知れないと思った。

 工場ではまず、製造から出荷までのすべての部署を体験させられた。

 原料のカカオは、生のものではなく、生産国で発酵・乾燥させられたものが袋詰めになって入荷されるのだった。カカオが発酵食品であることを初めて知った。ということは、チョコレートそのものもまた、醤油や味噌と同じく、発酵食品の仲間ということになる。

 カカオは日本ではほとんど栽培されていないため。すべては輸入品となる。

 子供の頃に観た『ウルトラマン』で、カカオを主食とするゲスラという怪獣が、港に出現したのを思い出し、懐かしく思った。

 カカオ豆の香りは芳醇で、コーヒー豆とはまた違った奥深い世界を持っていた。

 身体に付着したその香りは、作業服を脱いでもほんのりと漂い、まるで香りの衣裳を纏い、香りに抱かれているような気持ちがした。

 そしてその香りは、いつしか千代子の思い出と直結するようになった。

 選別し、ローストされた豆は、皮を取り除き、すりつぶしてペースト状にされ、そこにココアバターや砂糖やミルクなどと混ぜ合わされ、時間をかけて練り上げられ行く。この時点で、一般によく知られたチョコレートの味と香りが決定されるのだ。さらに、テンパリングという温度調節の行程を経て、型に流し込まれ、冷却の後、型抜きをして、検査・包装され、出荷されるのだ。

 工場は、ほとんどがオートメーション化されていて、精密な機械が、律儀な会計士のように的確に動いていたが、それを監視し、管理するのが人間の仕事だった。

 どの行程にも、それなりの苦労はあり、つらいこともないではなかったが、おおむね、賛太はこの仕事を気に入っていた。

 最初に配属されたのは出荷部門で、出来上がった製品を運んだり、在庫の管理をしたりする仕事だった。身体を動かすことは苦にはならなかったし、それなりに爽快感もあったけれど、どうせなら直接製品を作る側になりたいと思い、通信講座で食品学を学び、製造部を経て、商品開発部へと配属された頃には、三〇歳になっていた。

 小学校時代の同級生・啓介の結婚式で、旧友たちと再会したのは、この頃のことだ。

 自分がチョコレート工場に勤めていると言うと、みんな意外な顔をした。

「まあ、いろいろあってな」と彼は答えた。「でも、今の仕事を気に入ってるよ」と。

 推理小説を書くのをやめたわけではなかったが、仕事の忙しさも影響して、次第に執筆量は減少して行き、千代子をヒロインにした長篇本格推理小説も、とうとう完成しなかった。

 四〇代になった彼は、主任に昇格し、新製品開発のプロジェクトに参加するようになった。時代は、ノストラダムスが予言した(らしい)人類滅亡の年を過ぎて、遥か未来と夢見ていた二一世紀に突入していた。

 彼がアイデアを出して開発した商品のいくつかは、そこそこのヒット商品となり、プロジェクトリーダーとなった頃から、ひとつの商品の企画が、脳裡に芽生えはじめた。それは、千代子そのものをキャラクター化した商品だった。

 それと並行して、ある種のカカオの香りに、記憶を呼び醒ます効力があることに気がつき、その研究もはじめた。

 中学生の時、テレビドラマ化されて大ヒットし、その後も幾度も映像化された筒井康隆の名作SF小説『時をかける少女』では、ラベンダーの香りが、タイムトラベルのトリガーとなっていた。プルーストの『失われた時を求めて』の例もあるように、香りと記憶には、何か密接な関係があるらしい。

 試行錯誤と紆余曲折を経て、千代子冷凍と名付けた商品の原型がどうにかかたちになったのは、賛太が五〇代になってからだった。彼は商品開発部の部長になっていたので、ある程度の資金の融通はきいたので、開発は急加速で進んだ。

 しかし、完成間近という時点でストップがかかった。

 就任したばかりの新社長の猛烈な反対があったからだ。

「君はどうやらプロジェクトを私物化しすぎているようだ」と、年下の新社長は言った。「あまりにも趣味的過ぎるよ」と。

 賛太自身は、どのような派閥にも属していないつもりだったが、旧社長派と目されていたらしく、企画会議では新社長の意見に追従する者が多く、開発中止の断が下されてしまったのだった。

 長年の企画研究に突然の終止符を打たれ、会社でも立ち位置が危うくなりはじめた彼に、意外なところからヘッドハンティングの誘いがかかった。

 以前から彼の仕事に注目していた綜合食品メーカーが、新規にチョコレート部門を立ち上げることになり、その中心となる人物として、彼を指名して来たのだ。社内事情にも精通していた相手は、かなりの好条件を示して商品開発部長兼工場長として迎え入れると言って来たのである。

 それだけでも心を動かされたが、決定打となったのは、新工場が彼の故郷の街に、それも小学生の時にクラスメイトたちと廃墟を探検した、あのでんぷん工場の跡地に建てられるということだった。でんぷん工場のあった場所は、その後ボウリング場となったが、一九七〇年代初頭の熱狂的なブームが去るとともに、急速に集客力を失い、七〇年代後半には倒産してしまった。建物はしばし放置されていたが、改装して、市民ホールとして地元民に愛用されていたのだが、老朽化が激しく、遂に解体され、今は更地になっていた。そこに新工場を建てようと言うのだ。

 その話を聞いて、賛太は転職を決意したのだった。

 工場は、設計段階から彼の意向を大きく採り入れ、巨大な冷凍施設を持つ画期的なラインを持つ施設として完成した。

 研究の結果、マダガスカルのある地域で採れるカカオをもとに作られたチョコレートを冷凍化すると、食べる時の人間の体温によって気化した香りが空気と混合して鼻孔を通り抜ける時に、いちばん記憶回路を活性化することが判明したからである。

 こうして、一〇年以上の歳月をかけて完成した千代子冷凍は、少女のかたちをした氷菓という意表を突いたヴィジュアルとともに、発売とともに評判となった。さらに、「はじめてなのになつかしい!」「遠い記憶が甦る!」という声が数多く寄せられるようになり、大ヒット商品となった。

 二〇二一年、新型コロナ・ウィルスの世界的な蔓延によって、新規産業への進出の道を断たれた親会社は、大幅な事業削減を余儀なくされた。この頃には取締役の一人となっていた賛太は、千代子冷凍工場とともに親会社から独立することを決意し、実行した。

 様々な障害を乗り越えて、二〇二五年にはAIロボットを導入し、工場をほぼ無人化することに成功した。

 さらに研究を重ね、カカオといくつかの香料を化合することによって、本格的なタイムスリップの薬品が完成したのは、二〇三〇年。彼はもう七二歳になっていた。

 一二月二四日になるのを待って、タンクに蓄積したカカオ・ペーストを加熱、蒸発させ、ダクトから工場全体をその香りで包み込んだ。そして、六一年の時間を遡行して、人々の思い出の中ににある同じ場所の廃工場の記憶とすり替わったのである。

 写真がにじんで、じんわりとオーバーラップし、やがて別の画像へと変換されるように、千代子冷凍工場は一九六九年のクリスマス・イヴに出現したのだった。甘い香りと、ありえざる記憶とともに……。

物語はいよいよ佳境へと入って来ました。

それではまたお逢いしましょう。

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