3月31日 ため息
ドアベルがカランコロンと鳴った。入り口を見てみれば黒い上着を来た男が一人入ってくる。最近よく来店するお客の一人だとすぐに気が付いた。
彼は店員の案内を待つことなく、空いていたカウンター席に腰かけ、メニュー表を手に取り眺めていた。そして深いため息をつく。彼のいる席からカフェテーブル二つ分は離れたところに私はいるのだが、ここからでもその音がはっきりと聞こえてくるほどだ。
男は顔を上げてきょろきょろと見まわし始めた。注文が決まったようだ。私はその男の席へと向かう。
「すみません。注文いいでしょうか」
「はい、お伺いいたします」
「ホットコーヒー一つ」
「かしこましました。ホットコーヒーお一つですね。すぐお持ちいたします」
私がコーヒーをいれている最中もたびたび深いため息をついていた。彼の表情を見る限りではそれほど思い悩んでいる様子は見受けられない。平然とした様子で大きなため息をついているのはなぜだろう。ただの深呼吸にしては大きすぎるうえに、今日ばかりではなくいつもこのような感じだ。思い切ってそれとなく遠回しに訊ねてみようと見ようと考えた。
「ホットコーヒーでございます――ため息をつくと幸せが逃げていくと言いますよ」
ここまで口走ったところで、いやこれは少々おせっかいで出過ぎた真似ではないかと思えてきた。気を悪くしていないか心配になり恐る恐る彼の顔を伺う。これまで一切見せたことのない笑顔を見せて言うのだった。
「いや、いいんです。幸せをつかみすぎたから、こうしてため息をついて他人に幸せを分けてあげるくらいがむしろちょうどいいんです」
「なるほどお幸せなら結構なことです。それではごゆっくりお過ごしください」
それからというもの当喫茶店は口コミで話題となり、休日の昼間には長い行列ができるほどの店となった。
ほんの少し前までは店じまいを考えるほどお客が少なかった。思えばあのため息の男がこの店に来るようになってから繁盛するようになった気がする。ひょっとすると彼のおかげかもしれない。いやこれは考えすぎだろうか。
そういえば最近、あの男の姿を見ていない。彼はどこに行ったのだろうか。
お読みいただきありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマーク登録あるいは広告の下にある【☆☆☆☆☆】を押して評価していただけると幸いです。作者のモチベーションアップになります!




