3月20日 電車にクッションがついた
取締役会の議題は人身事故の対策についてだった。この大手鉄道会社では人身事故が後を絶たず、自殺線と巷で呼ばれるほどだ。
「去年も鉄道自殺数ワースト一位となりました。これで十年連続です。皆さんには自殺を含めた人身事故の対策について今日は議論していきたいと考えています。何かご意見等ある方は挙手をお願いします」
すると鉄道事業担当の役員が手を挙げた。
「まず議論を始める前に人身事故による損失について今一度皆さんにお伝えしたいと思います。事故発生によって時間的損失はもちろんですが、金銭的損失は莫大なものです。こちらのデータを見てください」
プロジェクターに人身事故発生時の運行見合わせの時間と金銭的損失の関係を表したグラフが投影された。その役員はさらに説明を続ける。
「運行見合わせになった場合、お客様への問い合わせ対応、振替輸送の対応、ダイヤの調整、臨時列車の運行など特別な対応が必要となります。そのため社員に残業させて対応する場合も多く――」
今度は財務担当の役員が発言をし始めた。
「君の言いたいことはわかりました。ただ財務部としては適切な設備投資ができるように資金は工面してあるはずです。これほどの損失が出ていることを理解しているにもかかわらず、ホームドアの設置が未だ進んでいないのはなぜですか」
あまりに食い気味に話し始めるので鉄道事業担当の役員はいらいらしながら答える。
「お金さえがあればすぐできるというわけじゃないんですよ。帳簿しか見ていないからそんなふうに簡単にいえるのでしょうね。ホームドアの設置は鉄道が運行していない夜間の時間に行います。ホームドアの設置が終わっても点検やテストを何度か実施してから運用することになるわけです。ゆくゆくは全駅にホームドアの設置を予定してはおりますが、しばらく時間はかかります」
財務担当の役員は不満そうな表情を浮かべ、再び口を開こうとした時だった。社長が手を挙げていることに気がつき、何も言うことなく口をつぐむ。
「ホームドアは鉄道自殺以外にも、お客様の不注意によるホームへの落下・電車との接触事故の防止にもなる。時間がかかるのは承知しているが、できる限り早くホームドアの設置をしていただきたい」
「はい、承知しました」
鉄道事業担当の役員は粛々と答えた。社長はさらに話を続ける。
「プラットホームの場合はホームドアの設置で対策はできる。しかし問題はそれ以外の場所だ。例えばそうだな。先日ちょうど踏切で鉄道自殺があった」
この取締役会の一週間前、踏切で事故があった。しかも朝昼晩とそれぞれ一回、計三回もの人身事故があった。踏切に立ち入った人間が走行してきた電車に轢かれ、どれも自殺と推定されている。ダイヤがようやく回復してきたところで人身事故が重なり、現場の職員は多忙極まりない一日だった。取締役会で人身事故対策が議題に挙がったのもこの件があったからだった。
「踏切という性質から、ホームドアのように常に立ち入ることのできないよう閉じておくことはできない。何か良い対策がないか皆に意見を聞きたい、というわけだ」
鉄道事業担当の役員が手を挙げた。
「踏切のある場所に係員をつけるというのはどうでしょう」
すると財務担当の役員がすぐさま睨みつけながら言う。
「我が鉄道に踏切がいくつあるか、あなたが最もご存じでしょう? それを実現するにはホームドアの設置よりお金と時間を要するでしょうね」
小さな踏切も合わせると千をはるかに超えるだろう。とても現実的な対策ではなかった。
鉄道事業担当の役員は下を向いて黙り込んでしまっている。
その後も様々な議論が役員によって交わされたが、効果的かつ実現可能な対策は全く挙がらなかった。
議論が行き詰った頃、参加者の一人がぽつりと発言した。
「先頭車両にやわらかいクッションをつけたらどうでしょうか」
あまりに無茶苦茶な提案だったために、参加していた役員は皆、冗談かと思ってくすっと笑みを浮かべそうになった。しかし、声の主を理解すると全員自然と真顔になる。
発言者は現場の女性運転士だった。取締役会に特別に呼ばれているだけあって、ただの運転士ではない。彼女は数々の人身事故に運転士として遭遇し、対応してきたということで社内でも有名だ。一時は休職するまで精神的に追い込まれたこともあったが、現在は現役の運転士として働き続けている。彼女がこんなことを突如言い出したことにはきっと何か理由があるのだろう。皆、彼女の次の言葉を黙って待っていた。
「ふかふかのクッションをつければ、今までより苦痛を感じることなくお亡くなりになられると思います」
まさか被害者に寄り添うかたちの意見が提案されるとは思いもしない。そもそも人身事故の防止になっていない。彼女が何を考えているのかわからず、一同が呆然としているとさらに話し始めた。
「運転士として初めて人身事故に遭遇したのは今から十年前のことです。当時、私は特急列車を運転していました。途中の駅を通過する際、一人の女性がホームから飛び出してきたんです。長くて艶やかな黒髪の女性で、私は彼女と一瞬ですが目が合いました。とても綺麗な女性でした。それから彼女は目をつぶり、身体をびくりと縮こませて車両に接触しました。この記憶は何年たっても私の記憶から消えることはありません。今でも鮮明に当時の映像が脳裏に焼き付いています。
私はその人身事故の後、しばらく会社を休みました。夜も眠れず、食欲もなく、やる気もなくなりました。することといえば散歩くらいしかする気にはなりません。偶然、踏切の近くを通りかかった時、一本の電車が通過していくのが見えました。
もし、あの頑丈な金属できた物体と私の身体が接触したらどうなるのか。私は想像を膨らませて考えてみました。おそらく車体に当たってとてつもない苦痛を感じ、その後に身体が落下して何個もある車輪に巻き込まれて粉々にされるのだろう。想像するだけでもおぞましいと思いました。
ではなぜ被害者は鉄道自殺を選んだのでしょうか。死に方は他にもいろいろあります。こんなに大きな苦痛を感じる残酷な死に方を選ぶ必要はないように思えます。
なぜ鉄道自殺なのか。それにおそらく確固たる理由なんてものはないのだと思います。
あの黒髪の女性だって轢かれる寸前に目を閉じて縮こまっていました。あんな金属の塊が前から迫ってきたら誰だって怖いと思います。
なぜ人が自分で死を選ぶのか。それは私にもわかりません。
ですがこれだけは言えます。死ぬとしてもできる限り苦痛を最小限にとどめてあげたい。だから先頭車両にクッションの取り付けを提案しました。とてもやわらかいクッションを車両の前面に取り付けます。できる限りレールと車体の隙間が発生しないよう敷き詰めるように配置することで少しでも死亡事故を減らすことができますし、万が一亡くなってしまった場合でも今までのように身体が車輪に巻き込まれて粉々にならずに済みますから、多大な苦痛を感じることはなくなります。被害者だけではなく私たち運転士の精神的苦痛についても減らすことができるのではないでしょうか」
***
プラットホームで電車を待つ。深く息を吸い込むと、冷ややかな空気が私の身体を満たしてくれるような気がした。しばらくして前方から電車がやってくるのが見える。
なにやら車両の様子がおかしい。前面にはもこもことした柔らかな物体が取り付けられており、風でふわふわ小刻みに揺れている。
ある程度の弾力がありそうで、それでいて身体を優しく包み込んでくれそうな素材だった。あれを床に敷いて寝ころんだらどうなるのだろう。想像が勝手に膨らんでいく。
反対ホームにいた小さな女の子が車両に気づいて、「ママみて。わたがしがでんしゃについてる」と満面の笑みを浮かべてすっかりはしゃぎ始めた。
電車は私のもとを通り過ぎ、ふわりと暖かな風を一緒に連れてくる。それからゆっくりと電車は停止し、ほどなくして扉が開く。
気づけばこのところ私を満たしていた暗鬱な気持ちはどこかへと消えていた。
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