3月5日 殺したはずなのに
異変を感じたのは自分の住むアパートに戻ってきた時だった。私の隣に住む男がちょうどドアを開けて出てくるのが見えた。なぜ彼がここから何もなかったかのように出てくるのだろう。どう考えてもおかしい。
私にミスはなかったはずだ。彼を包丁で刺し殺して、山奥に捨てたはずだった。それにもかかわらず、何食わぬ顔で歩いていくではないか。
私は自分の家に入って冷静になって考える。見間違いだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
しかし、その私の思いはものの一時間で裏切られたのだった。彼がまた家へと戻ってきたのだ。足音を聞くだけでわかる。あの、すたすたと地面を擦りながら歩く様は、あの男で間違いない。ドアスコープから外を覗き見る。例の男が横切っていき、鍵を開ける音が響く。そして彼は部屋の中へと入っていくようだ。
それからいつものように大音量でテレビを鳴らし、彼は叫ぶように笑っていた。私はこの男の迷惑極まりない行動に始終いらいらしている。早朝も深夜も時間をわきまえずにこのように大きな笑い声が聞こえるのだった。
おかげで私の睡眠は阻害され、目元に黒々としたくまができてしまっていた。なぜこんなことになっているのか私には理解ができなかった。
昨日確かに犯行はうまくいったはずだ。部屋のチャイムを鳴らして、出てきた例の男の口をすぐさまタオルでふさいだ。そして包丁で胸元を刺したのだった。その後、車で遺体を運び、人も来ないような森の中に捨てたのだった。当然、死んだとばかり思っていたが、刺しどころが不十分だったからだろうか。もしかすると生きていたのかもしれないという気もしてきた。
この件は特に今朝のニュースの話題にもなっていなかったし、警察が捜査をしているようでもなかった。てっきりまだ発覚していないとばかり思って安堵していた。しかし、彼が生きていたと仮定するとそれはそれでおかしな点がある。殺されかけたにもかかわらず、平然と今までの暮らしを続けるのだろうか。並みの人間なら恐怖のあまりアパートに戻ることなどせず、警察にでも相談に行くはずだ。
そんな行動もせずにいつものようにテレビを見て大笑いしている男は一体何なのだろう。
そうこう考えているうちにも、彼の笑い声は一層強くなった。何がそこまでおかしいというのだろう。ずっと聞いているうちに殺し損ねたことをあざ笑っているかのようにも思えてきた。
なぜ男が死んでいないのか。なぜ男が平然と今までの生活をしているのか。なぜ男がそんなにも笑っているのか。考えれば考えるほどにわからなくなり寝付けなくなっていく。
そもそもこんな騒がしい環境では寝られるはずもないのだが。
医者にでも行って睡眠薬でももらうことにしよう。それがいい。
翌日、近所にある診療所に行くと、医者からこんなことを言われた。
「あなた、今までよく辛抱しましたね。お辛かったでしょう。おそらく精神疾患です」
ここでようやく一切を理解したような気がした。確かに翌々考えてもみればおかしいと思うことはあったのだった。あの例の男は四六時中、笑っている。それこそ寝る間もないくらいに。鉄人のような人間でも不眠不休で笑い続けるなどできるわけがない。以前にアパートの管理会社に問い合わせをしても、担当者は「あなたの隣の部屋は空き家です」と一辺倒の答えしかくれなかったのも納得がいく。おかしかったのはあの男の方ではなく、私の心がおかしくなっていたのだろう。私が精神を病んでしまい、幻覚と幻聴を経験していたのだとすればこれ以上ないくらい腑に落ちるではないか。
私は医者から治療薬を何錠かもらい、診療所を後にした。家に戻ると例の男の声は聞こえなくなっていた。先ほどもらった薬を早速飲んだからだろうか。私がここに初めて来た時と同じくらい静かな空間となっていた。
そうだ。料理でもしよう。食事を作るのは私の唯一の趣味でもある。張りつめていた気分もすっかりなくなって食欲もわいてきた。キッチンにある包丁に目を向けた時だった。
包丁に赤い液体がどっぷりと付着していた。
私は本当に誰も殺していないのだろうか。あの犯行をも幻覚だったと思い込んでいたが、違ったのだろうか。
やはり今日もまた寝られない。
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