3月1日 卒業
西の空に見える夕日は、僕らを薄暗く照らしていた。
卒業式後、友人の藤枝の家に上がり込み、くだらない雑談やゲームをしていたら気づけばこんな時間になっていた。藤枝は駅まで僕を送ってくれるという。
様々な話をしながら駅へと向かっていると、僕ら二人はバイパスの高架下に差し掛かった。ナトリウム灯の橙色の光がうっすらと藤枝の顔を照らす。
「結局好きな人、誰なんだよ」
高架下ということもあり、藤枝の声が響き渡った。
「はあ?」
「別に教えてくれてもいいじゃないか。本当は好きな人いるんだろう?」
「さあね」
藤枝は気づいていないのだろうか。僕の「さあね」という言葉そのものが肯定の意味を表していることを。三年間、一緒にいたのだから気が付いてもおかしくないことだろうに。
「誰なんだよ?」
「さあねー」
僕は考える。確かに好きな人はいない。だが、気になっていた人ならいる。気になる人も好きな人の内に入るという考え方をすれば、好きな人はいるということになるのかもしれない。であるから、その人の名前くらいなら教えても良いだろうと思った。今日くらいは教えても良いだろう。
「――分かった。教えよう」
「おお、そうか。誰なんだ?」
僕がある女子の名字を答えると、
「えっ、マジか。てっきり六合さんだと思っていたのに」
非常に驚いている様子が見てとれた。意外な人だったと思っているのだろう。
「でも、厳密にいうと好きという感情を抱いているかといえば、それは違うかもしれないな。見た目が良いと思っただけという、ただそれだけの理由だから、その人について何も知らないというか……」
「まあ、三年間別のクラスだったしな」
「さてさて、じゃあ今度はこっちから尋ねるとするか」
「はあ? 俺、好きな人いないし」
どうして急に焦っているのだろうか。
「言わせておいて、それはないだろうよ。さあ、言うんだ」
別にそこまで知りたいとは思ってはいなかったのだが、僕が言ったのに藤枝が言わないのは不平等だと思い、八割の圧力と二割の興味で尋ねたのだ。
すると、藤枝は真面目な顔をして答える。
「今は本当にいないから言うことはできないけど、その代わりとして好きだった人を教えてやるよ。四組の――」
藤枝はある女子の名前を言ったのだった。四組の人であったため名前も顔も、どういう人なのかさえも知っている。
「好きだった人って、言っておきながら、それはないだろー。どうせ、藤枝が二年のときの話だろ? 前に自分で言ってたじゃないか」
「あれ? そうだった? そんな覚えがあったような、なかったような」
明らかにとぼけていると分かるその様子を見て、もう訊く気力はなくなった。まあそれ依然に藤枝の好きな人が誰かということにそこまで興味を抱いていたわけではないのだから、特にがっかりしたわけでもない。
「こっちの道は車が多くて危険だから向こうの道を通って駅に行った方が良いと思うけど」
藤枝はここから一本向こう側にある道を指さしながら言っていた。
「じゃあ、そうするよ」
そう何気なく答えたが、迂回した後でよくよく考えてみると、藤枝の発言におかしな点があることに気がついた。行きで使った道は車が多くて危険だと言っていたが、確かに交通量があり危険だと言えば危険だ。しかし、その迂回しようとしているその道もまた、たいして交通量が変わらない気がするうえ、むしろこの道の方が交通量は多いのではないかと思ってしまう。わざわざ遠回りしてまで使おうとは思わないだろうに。
曲がり角を進んだところでようやく駅舎が姿を現した。駅とその周りの風景は、昼間来た時とは随分と異なっているように思われ、まるで違う駅に来たかのような感覚に襲われる。
電車が来るまで十分ほどの時間があったため、改札をまだ通らずに入り口付近でしばらく話をすることにしたのだった。
「離任式に来る?」
と、藤枝は訊いてきた。卒業式の日がクラスメートと会う最後の日であるというのは正確には、それは間違いであり、正しくは離任式こそが最後の日なのだ。
「いや、その日は大学の身体測定があって出席することはできないんだ」
「そうか。俺はどうしようかなあ」
「行けるんだったら行ったらどうだ? 色々驚くことがあるかもしれない」
「驚くこと?」
「そう、女子の見た目の変わり様に驚くと思う。だって、髪を染めて、これでもかというくらいの厚化粧をしてくる人がいて、この人たちは一体何者なのだろうと毎年、そんなことを思うことがあっただろう? 今年は自分の学年でそれが体験できるというわけだよ」
離任式は例年、三月の終わりごろに行われ、卒業生はスーツを着用し、大人のような恰好をして式に望むのが通例である。その洒落たスーツ姿はすっかりと様になっている人もいれば、そうではない人もいる。一体この人はどの路線で人生を歩んでいくのかと思わせるそんな人の姿を見るのは、大変に滑稽で面白味がありそうな気がするのだが、あいにく今年は参加することができないため、非常に残念である。僕は決して勘違いをしているわけではないが、離任式は卒業生の変わり様を見る式典ではなく、お世話になった先生方に対して最後の挨拶をする式典であることは、きちんと理解しているつもりだ。
「そう言われたら、そうだな。特に女子は高校卒業すると変わるからな。結構みんな髪の毛を染める人が多かったし、去年なんかはヤマンバみたいな人がいたしな。ええと、俺はクラスの人に会いたいし、行こうかな。どうしようかな」
「もうそろそろ時間だから行こうかな」
「えっ、もう行くのか?」
「ああ」
僕は別れを悲しいものにはしたくはなかったため、できる限り明るく振る舞うよう心掛けていた。それに対して藤枝は涙目をしているように見えた。いや、涙目だった。それはおそらく、別れを惜しんでいるためだろうと僕は勝手にそう思っている。まさか花粉症ではないだろう。
正直なところ、藤枝のような奴が別れを惜しむとは実に意外である。こんな僕でも別れを寂しく思ってくれる人がいることを知って、心が温まる気がした。もしかすると、駅に来る途中で迂回したのは少しでも長く話をしていたいという気持ちの表れだったのかもしれない。いや、これはいくらなんでも考え過ぎだろうか。
僕ら二人は何となくだが、理解しているのだ。これで会うのは最後だということを。きっとこの先、もう二度と会うことはないと、お互いに思っていることだろう。なぜなら人と人との関係が希薄なものだということを分かっているから。したがって、これからする別れの挨拶はいつもしている別れの挨拶とは異なった意味合いがあり、『また今度、会おう』という簡単な『さようなら』ではなく、『もう会うことはない』という重みを持った『さようなら』なのだ。
「じゃあ、またね」
僕が藤枝に対して言った最後の言葉は何とも皮肉じみた言葉のように思う。もう会わないと薄々わかっているにもかかわらず、習慣的に『またね』なんて言ってしまうなんて。
改札を抜けてから後ろを振り返ると、藤枝も同じように手を振りかえしてくれた。別れは悲しいものにはしたくない。そう思っているから、笑って別れをするようにしている。しかし、藤枝は笑っていなかった。そんなこわばった表情で手を振っている藤枝をよそに、僕はゆっくりと前を向いて階段を下りる。
僕は藤枝に対してはたして何かしてきたことはあったのだろうかと、ふと思う。考えればすぐに分かることだ。おそらく何もしてきていないだろうと思う。あえて言うなら迷惑をかけたことぐらいだ。
それに対して藤枝が僕に対してやってきたことは、今思えば大きなことだっただろうと思う。しかし、僕はその恩を何一つ返せていない。今日だって、昼飯代の二百二十円すら返せていないのだから。
この三年間、自分でも思っているとおり、友人とうわべだけの付き合いをしていたかもしれないが、周りの人たちはそんな僕を受け入れ、そして仲良くしてくれた。今頃、気づくことは随分と遅いと分かっている。僕は周りの人に恵まれていたのだ。藤枝だけではない。そのほかの人たちも。みんな良い人達だった。いくらうわべの付き合いをしていたとしても、そのような人と別れるのは少し寂しさが湧いてきてしまう。別れには十分慣れているはずなのに。どうして、寂しく、そして悲しく思うのだろう。今、心に漂っているこの気持ちは何なのだろう。胸にぽっかり穴が開いたようなそんな気持ち。すっかり慣れたつもりでいたのだが、どうやら別れには慣れることはできないようだ。
そして、僕はいつも思ってしまう。
春は嫌いな季節だということを。
なぜなら、別れがあるから。
黒一面の景色が見える車窓は、反射して自分を映していた。
もう、この制服を着ることはないのか。
自分の家に帰って制服を脱いで着替えようとした時にそんなことを思った。
当たり前だ。卒業したら、もう着ることはないだろう。それくらい分かっている。そのようなことに今さら気づいたという自分の馬鹿さ加減を知ったと同時に卒業をようやく実感したのだった。全く遅すぎるではないか。
卒業したといっても、自分は高校を卒業したというだけであって、何か変わったというわけではないように思う。中身はちっとも変わっていないのではないかと思ってしまう。自分自身は変わらないのに、周囲の環境ばかりが変わっていき、形式的な卒業にしか思えない。いつまでも、ひよこのままの状態な気がしてならないのだ。にわとりになれないひよこ。要するに自分から卒業できないでいるのだ。いつまでも同じであろうとする。もちろん、これの全部が全部、悪いことだとは言えないが、変わらなければいけないところは自分でもわかっているはずだ。それでも、今までずっとそうやって続けてきてしまい、今に至る。自分から卒業できない、そんな自分は情けなくて、臆病で、卑怯で、貧弱だ。
こんなことを考えてしまう自分が一番嫌いである。
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