2月14日 チョコレートのメッセージ
綾瀬香澄はどうやらチョコレートを渡したいらしい。二月十四日、すなわちバレンタインデーである今日に女子と二人きりとなった今、彼女のそのメッセージに気づかないわけがなかった。
綾瀬は書き終えた半紙をどけると、新たにもう一枚手に取って下敷きの上に置いた。そうして文鎮をのせて筆をとる。一筆一筆、丁寧に書を創っていく。彼女の書はいつも繊細でいて、どことなく力強さをほのかに感じる、そんな作品が多い。そして今日もまたいつもと変わらず彼女らしさを持った書であることに違いはなかったものの、普段と異なることが一点だけあった。それは綾瀬が先ほどから書き続けている字だ。
チョコレート。半紙にきれいに書かれたそれは、今日がバレンタインデーであるということを嫌でも思い出させるものだった。綾瀬は昔から王羲之の蘭亭序をこよなく愛している。部室に来た時には何があっても初めは蘭亭序の臨書していた。それは今まで一切の例外なくそうしていたのだった。文化祭で行う書のパフォーマンスで宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の文章を書く練習をみんなでしている時だって一人だけ蘭亭序を書いていたほどだ。それなのに今日はどうしてまた「チョコレート」と書き続けているのだろうか。
ひょっとすると自分にチョコレートを渡そうとしているのではないか、という思考が頭をよぎった。女子と二人きりでこんな状況というのは高校生男子として期待しないわけがない。けれどもそれは自惚れというものだ。そんな都合よくチョコレートをもらえるわけがない。
しばらくすると綾瀬は真っ白な半紙に別の字を書き始めた。思わず自分の筆を止めて彼女の筆の行方を追ってしまう。
絶対。確かに半紙にはそう書かれていた。行書体で書かれており、書風は蘭亭序をリスペクトしていることがうかがえる。それにしても「絶対」とは何を意図して書いたのかわからなかった。無論、蘭亭序の文章に「絶対」という字は含まれていない。
綾瀬は再び筆をとった。そうして同じく行書体でさらさらっと書き上げた。
渡す。半紙にでかでかと書かれていた。一体何を渡すのだろうと一瞬思いはしたものの、すぐにその意図に気づいてしまった。綾瀬が先ほど書いた書とつなげて読めばこうなる。
チョコレート絶対に渡す。
やはりチョコレートを渡すつもりだったのだろう。そうなると自然とわいてくる疑問がある。
誰に? もしやこれは自分へのメッセージでは?
そんな風に思えてくる。よく見れば綾瀬のスクールバックはチャックが開いており、中に入ったプレゼント用にラッピングされた箱が見えている。これは気づいて受け取ってくれというメッセージなのだろうか。しかし男子の方から「バレンタインチョコ欲しいな」と言うのはどこかおかしいとは思う。そうだとするとなんだろう。彼女は少しシャイなところもないわけではないから自分から言い出しにくいというわけだろうか。
そんなことを色々と考えているうちに彼女と目があってしまった。目があったついでに、ここは一つ鎌をかけてみようと思う。
「ずっと書いてて疲れたし、休憩しようかなー。なんか甘いものでも買ってこようかなー」
我ながら棒読みだった。慣れないことはしないほうがいい。そんな風に思っていたけれども、綾瀬はこの言葉を聞いて目を輝かせていた。これ見よがしに立ち上がり、スクールバックに手を掛ける。
え? 本当に? チョコレート渡すつもりだったの? そう思った矢先、部室の扉が開いた。
「お待たせ。香澄ちゃーん!」
突如として現れた彼女を確認すると、綾瀬はスクールバックからラッピングされたそれを取り出しては駆け寄っていく。
「はいっ、春香。これ昨日言ってたチョコレート」
「ありがとう。わーい、香澄ちゃんの友チョコ、うれしいなー。私も作ってきたからあげるねー」
そう言って友チョコ交換を終えると、二人はお互いもらったチョコを開けて食べ始めた。
なんだかものすごく寂しい気持ちだ。勝手に期待して勝手に失望したしている自分が非常に格好悪い。何がチョコレートだ。何がバレンタインだ。そんなもの……。そんなもの……。
「あっ、そういえば東君。さっきチョコ置いといたから」
「え?」
綾瀬からの思いがけないセリフに耳を疑った。見れば文鎮がチョコバーに変わっているではないか。
「いつの間に!」
「東君が孔子廟堂碑を書いてるとき」
綾瀬は噴き出すように笑いながらそう言った。
「春香ー。聞いてよ。東君ったら全然気づかないんだよ。字を書くことに集中しちゃってさー。マジウケる」
「まさに無の境地ってやつだよねー」
と、二人は指をさしながら大爆笑するのだった。
「これでも私、ずっとメッセージ送ってたんだよ。見てよ。この半紙」
綾瀬は自慢げにチョコレートと書かれた半紙を見せつけてくる。そのメッセージ自体には言われる前に気づいていた。でもそんな恥ずかしいことは言えるはずもなく、
「確かに今日は珍しく蘭亭序書いてないなとは思ったけど」
と、答えるのが関の山だった。
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