6月25日 レファレンスは突然に(解決編)
本作は6月24日 レファレンスは突然に(推理編)をご覧になってからお読みください。
先ほどまでの一面の曇り空とは打って変わって、夕焼けが綺麗に見える程度には晴れていた。天気予報は全く外れたというわけでもなさそうだ。本屋を後にして二人で駅に向かっていた。先輩は文庫本を一冊、持ちながら歩いている。例の小説を読み終えた先輩は不思議そうに尋ねる。
「どうして……この本だって分かったの?」
暖かい色。読んだ後にすっきり。
この曖昧な情報だけをもとにして本を探したことに驚いているのだろう。でも一番びっくりしているのは自分自身だ。まさか本当に探し出せるとは思っていなかった。
コホンと軽く咳払いしてから言葉を発する。
「先輩が言っていた暖かい色という情報、あとは出版社の違いに気がついたこと、これが本を探すうえでの大きな手掛かりになりました」
「出版社の違い?」
先輩は首を傾げた。
「はい、そうです。一見すれば、あの三冊には共通点がないように思えます。ですがそれらの本を先輩が探したことにはれっきとした根拠があるんです。まず『地獄変・偸盗』について。これは新潮文庫から出ている短編集です。えっと、先輩は昔の文学作品はよく読まれますか?」
「うん、読むよ」
「じゃあ、たぶんこのことは知っていると思いますが、昔の文豪の作品は複数の出版社で刷られています。特に芥川龍之介の作品は短編が多数あるので、文庫本として収録される際、本のタイトル以外の作品も同時に収録されることが多々あります。本のタイトルが同じあるいは似ていたとしても、出版社が違えば収録作品も当然異なってくるわけです」
「そっか、だから……」
先輩は納得したように呟いた。
「そうです。図書室にあった新潮文庫の『地獄変・偸盗』の他に、集英社の『地獄変』という文庫本があったんです。さすがにこのことは、最初から知っていたわけじゃないですよ。本屋に行って初めてわかりました」
「じゃあ、小学生の頃に私は集英社の『地獄変』を読んで……」
「……その中に収録されている例の小説を読んだというわけです」
それから数年が経過して先輩は高校の図書室で『地獄変・偸盗』を見つけて読んでみた。けれどもお目当ての作品はない。それもそのはず。あの作品が載っているのは集英社の『地獄変』であって、新潮文庫の『地獄変・偸盗』にはないのだから。
――と、ここまでが出版社の違いという観点からの推理。要するに他の出版社の文庫を読んでいたから見つからなかったというわけだ。
さらに先輩が提示した暖かい色という情報からのアプローチについて話す。
「先輩が『檸檬』と『人間失格』を手に取った理由についても考えてみました。知っての通り『人間失格』は長編です。ですが、角川文庫の『人間失格』では『桜桃』という短編が収録されていました。梶井基次郎の『檸檬』、太宰治の『桜桃』とくると、果物つながり……あるいは暖色つながりと考えることができます」
ちなみに本屋で調べてみたところ、自分が中学生のころに読んだ『人間失格』は、角川文庫のものではなく、集英社文庫から出ているものだった。集英社文庫の『人間失格』には『桜桃』が収録されていない。それゆえに自分は当初、同時収録されている『桜桃』の存在について知らなかったというわけだ。決して読書感想文を書くのに必死で気づかなかったわけじゃない。それに出版社が異なるのだから自分が読んだ本と装丁が違うのも当然だ。
「そういえば私、何となく果物の出てくる小説かなって思って探したんだ。でも、読んでみて二作とも違ったから思い違いかなって……」
やっぱりそうだったか。作品名だけで分かる共通性だったから、先輩もそのことを少しは意識しているだろうと予想できた。そのことを事前に教えてくれたら、もう少しスムーズに行ったことだろう。
「檸檬は黄色、桜桃はさくらんぼのことだから赤。しかし、『地獄変・偸盗』では果物あるいは暖色関連の作品名はありませんでした」
『地獄変』、『偸盗』、『竜』、『往生絵巻』、『藪の中』、『六の宮の姫君』が収録されていたが、この中に果物や暖色を表す語はない。
さらに続けて話す。
「自分は『地獄変・偸盗』にある収録作品の内容について全て把握しているわけではないです。でも先輩がその本を読んで、そこには探している小説はなかったという事実から、おそらく内容についても果物、暖色のイメージとは違う作品だったと当然のことながらわかります」
「うん、そうだね。厳密には『地獄変』には炎が出てくるシーンはあるけど、読み終わった後にすっきりっていう感じじゃないし」
先輩が最初に言っていたことを思い出す。
――私がその小説を読み終わった時のイメージが暖かい色なの。
確かにそう発言していた。この言葉で特に重要なところは「読み終わった時のイメージ」という点だ。ただ作中に暖色が登場すればいいわけではなくて、読了後に頭の中で思い描くイメージカラーが暖色だということだ。なおかつ読んですっきりする小説なのだから後味の悪い作品は除外される。
ここで生まれてくるのが次の疑問だ。炎、つまりは暖色の赤が『地獄変』に出てくるとはいえ、探している小説とは反対のすっきりしない小説を一度手に取ってしまったのか。そして他の二冊には、果物の小説が収録されているが、新潮文庫の『地獄変・偸盗』にはない。にもかかわらず、どうしてこの本に目的の作品があると思ったのか。
「そもそも先輩はどうして新潮文庫の『地獄変・偸盗』に目的の作品があると思ったのでしょうか?」
手に取った本の出版社が違ったからなのは、もちろんのことだけれども、聞きたいのはそういうことではない。たとえ運よく正解の集英社の『地獄変』を手に取っていたとして、その本だと思ったのはどうしてか。その理由についてだ。
「なんでかなぁ?」
とぼけているのか、素で言っているのか区別がつかない。何となく後者の気がしないでもない。
「それは探していた小説の作者が芥川龍之介だと思っていたからじゃないでしょうか? そしてまた『地獄変』というタイトルに覚えがあったのでは?」
「そう言われると、確かに……」
おそらくあの三冊のうち最初に手に取ったのが『地獄変・偸盗』だったのだろう。芥川龍之介だと思って手に取ってみたけれども違った。それで違う作者の果物の作品を探したのだろう。
「集英社の『地獄変』に収録されていて、読み終わった時のイメージが暖かい色、なおかつすっきりする話。そんな小説はただ一つしかありません」
そう、芥川龍之介の『蜜柑』以外には。
隣でパチパチと先輩が拍手をしてくれた。なんだか嬉しいような恥ずかしいような感じがする。嬉しいといえば、先ほど先輩が『蜜柑』を読んでいた光景を思い出してしまう。
先輩は最初のうちは淡々と活字を追っていた。けれど終わり際になると表情は一転した。読んですっきりする話だと自ら言っていたが、まさにその表現の通りの面持ちだったのだ。
読み終えた先輩はため息をついた。けれども、このため息は部室で見かけたものとは全く違う。感嘆のため息。
――読めてよかった。
そんな心の声が聞こえた気がした。
「ありがとね。ちょうど最近、心の中がもやもやしていたの」
「もやもや、ですか?」
「今日、来なかったでしょ? 実はあの二人けんか中なの」
あの二人というのは今日来ていない文芸部の残りの部員のことだ。我らが文芸部は自分を含めて四人で、残り二人も松原先輩と同じ学年だ。いつも仲良くしている残り二人の部員がお互いにけんかしているというのは同じ部員からしてもあまりいい気はしないものだ。だからこそ先輩はそのことが気がかりで暗い気持ちになっていたのかもしれない。そして後輩も同じような気持ちにさせたくはないと考えて、気を使ってそのことを言うのを控えていたのだろう。
「でもおかげで少し気持ちが楽になった気がする。さっき私、昔に読んだ作品だからあんまり覚えてないって言ったよね?」
「はい、確かそんなことを」
「でも覚えていることは実はあるの。ただのエピソードに過ぎないから、役立ちそうにないから言わなかったんだけどね。私が『蜜柑』を読んだのは小学生の時。私の友達がけんかしていてね。二人とも今まで仲良しだったのに……。私はその子たちのけんかの対象に含まれていなかったから、二人にはいつも通り接していたんだ。だけど友達二人の仲が悪くなると、私まで居たたまれない気分になるものなんだよね。この時も私はもやもやしていてね、気晴らしに本を読んでみようと思ったの。その時に読んだ本というのが芥川龍之介さんの『蜜柑』だったんだよ」
松原先輩がこんなに長々と話す姿を見たのはこれが初めてかもしれない。『蜜柑』のパワー、恐るべしといったところだ。
先輩はもやもやした気分を変えてくれるものがないか考え、そこで思い出したのが小学生の頃の出来事だったのだろう。その時に読んですっきりとした気分になった。それゆえに気分が落ち込んだ今、『蜜柑』を読んでカタルシスを味わいたいと思ったのだ。
本のイメージカラーは暖かい色。それは暖かな日の色に染まっている蜜柑の色のことを指している。
「或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた」
先輩は立ち止まって本を音読し始めた。いきなりどうしたのだろう。
「『蜜柑』の冒頭ですか?」
「そういえばこんな始まり方だったなって。さっきまではこの作品のこと曖昧だったけど、今はちゃんと思い出したよ。……それにしてもこの主人公って私みたい」
先輩はくすっと笑ってみせた。
「確かにそうですね」
『蜜柑』の主人公と先輩は同じ体験をしている。主人公は『云いようのない疲労感と倦怠感』を感じていた。しかし、ある光景を目にして心が浄化されている。
鮮やかな色の蜜柑を目にして心が浄化される主人公。
心のビタミンを補うために『蜜柑』を味わう松原先輩。
この二人には何か通じるものがあるかもしれない。
この光景に立ち会って、ふと思う。確かにこの世界には魔法やタイムマシンがあるわけでもない。奇跡的な出会いや密室殺人なんていうのもそうそうない。小説の中の世界のようにそんなにも世の中は面白いことや奇妙な謎に満ち溢れているわけじゃない。
それでも時折こうして小説になるほどかは定かではないけれども、ほんの少しばかり劇的なことがあったりもする。「事実は小説よりも奇なり」という言葉はあながち間違いではないのかもしれない。こうした時々「小説より奇なり」な世界で過ごすなか生み出された小説だからこそ面白い物語が創れるのだろう。
西の空を仰げば暖かな日の色が見えていた。
お読みいただきありがとうございます。
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