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6月24日 レファレンスは突然に(推理編)

   

 部室の窓から外を眺めると曇り空が広がっていた。今日は午後から晴れるはずなのだけれどもどうやら予報は外れたようだ。空のどこを見ても灰色の雲が絶え間なく続いている。曇天というのは不思議だ。見ているだけで気分が落ち込んでしまう力を持っているのだから。

 こんな天気を表したかのようにいつも明るい文芸部の部室は、今日は静かだった。他の部員が休みのため、七畳程度のそう広くはない部屋にぽつんと自分と松原果穂まつばらかほ先輩の二人だけ。何かこれといって活動らしいことをするわけでもなく、各々読書をするという風になっていた。文芸部の去年の文集を開き、活字を追っていく。内容は探偵が殺人事件を解決していくよくある推理小説だった。

 小説を読んでいてふと思う。探偵が殺人事件の捜査をすることなんてあるのだろうかと。現在の日本では警察が刑事事件の調査をする場合が多いだろうし、実際の探偵は浮気調査などのどちらかといえば民事の案件を扱うことが多いという話を聞いたことがある。殺人事件があったとしても密室での犯行があったというニュースを目にすることはほとんどない。「事実は小説よりも奇なり」なんていう言葉があるけれども、そんな例はごくごくわずかじゃないだろうか。少なくとも自分は十六年間生きていて、「小説よりも奇なり」という事柄に遭遇したことはない。

 この世界には魔法があるわけでもなければタイムマシンがあるわけでもない。奇跡的な出会いみたいなものもこれまで特になかった。小説の中の世界のようにそんなにも世の中は面白いことや奇妙な謎に満ち溢れているわけじゃない。

 今だって女子の先輩と二人きりの状況だけれども、この後もひたすら読書するだけで、青春小説のように甘酸っぱい出来事が起こるわけもなさそうだ。こんな陰気なことを考えてしまうのは曇天だからだろうか。そんな風に斜に構えて小説を読み進めていると深いため息が聞こえた。誰がため息をついたのかは明白だ。先輩に声を掛けてみる。

「どうしたんですか?」

 先輩がおとなしいことは知ってはいるけれども、常日頃からため息をつくような暗い性格ではなかったはずだ。

「いや、その……何でもない……よ」

 目を泳がせながらそう話した。いかにも何か抱えていそうな感じではあるけれども、何でもないと本人がそのように言うのならそっとしておくのがいいのかもしれない。一瞬そう思ったけれども松原先輩の姿を見ているともう一声かけざるを得なかった。というのは机に置かれた本を何度か一瞥しては、何かに悩んでいるように見えたからだった。

「その本がどうかしたんですか?」

「えっ」

 声を掛けられた先輩はビクリとして、「なんでわかったの」と言いたげにこちらに視線を向ける。松原先輩は口数が少ない代わりに、仕草や表情などから考えていることが大体わかるから、よくしゃべる人よりも何を思っているか理解しやすいところはある。

 先輩はしばらくの沈黙の後にゆっくりと一度頷いてから、その三冊の文庫本をこちらに差し出してきた。

「私、ある本を探しているの……だけど見つからなくて……」

 一冊は芥川龍之介の『地獄変じごくへん偸盗ちゅうとう』、もう一冊は梶井基次郎の『檸檬れもん』、そして三冊目は太宰治の『人間失格』だった。

 『檸檬』と『人間失格』に関しては確実に読んだ覚えがあった。一方で『地獄変・偸盗』については、作品名自体はみたことはあるけれども実際に読んだかどうか曖昧だ。小説を実際に読んでみればどちらなのかはっきりすることだろうけれども。

「この中に探している作品はなかったということですか?」

 ポニーテールを揺らして頷きながら先輩は答える。

「うん、この三冊のどれかだと思ったんだけど違ったの」

 力になれるかどうかはわからないけれども、その本を一緒に探したいと思った。他の部員が休みで読書以外することもないうえ、これも小説に関することなのだから文芸部の活動の一環ともとれないだろうか。

「もしよろしければその本に関して覚えていることがあったら教えてください。もしかすると協力できるかもしれませんし……」

 先輩は不安そうに視線を下に向けていた。あまり他者にこの問題について関わってほしくなかったのだろうか。そうだとすればこれは余計なおせっかいだったかもしれない。そんな風に少し後悔していると、意外にも先輩はゆっくりと首を縦に振って答えてくれた。

「暖かい色……かな」

「はい?」

「それは……暖かい色なの」

 色と暖かいという言葉の組み合わせに、若干の引っかかりを覚えたものの、そういえば暖色という言葉を以前に中学の美術の授業で習った。確か赤色、橙色、黄色などの視覚から暖かいという印象を与える色のことをそのように呼ぶはずだ。

「表紙の色が暖かい色だったということでしょうか?」

「ううん、違う。私がその小説を読み終わった時のイメージが暖かい色なの」

 言いたいことは何となくわかった気がする。先輩の頭の中では小説を色で表す習慣でもあるようで、探している小説のイメージカラーが暖かい色だと言いたいのだろう。

 しかし、この情報はあまりに主観的すぎる。イメージカラーなんていうのは、人それぞれで異なるものだろう。例えば教科のイメージカラーなんて人それぞれだと思う。数学のイメージカラーは青という感じはするけれど、英語は何色かと言われると、緑という人もいるし、赤と答える人もいることだろう。要するに所詮イメージカラーというのは、本を探すうえであまり有益な情報とはいえない。

「暖かい色……ですか。他に覚えていることはありませんか? どういう作品名だったとか? こういう内容だったとか?」

「読み終えてすっきりした気分になったことは覚えているの。でもそれ以外は何とも……」

「そうですか」

「ごめんね……せっかく協力してくれようとしたのに。ずっと前に読んだ本だから曖昧で……あんまり覚えていないの」

 あまりに申し訳なさそうに話すので、こちらとしてもなんだか色々かき回して申し訳ない気持ちになる。最初に先輩があまり乗り気ではなかったのが今になってわかった。記憶が曖昧で本を探すのに必要な情報に欠けていたからこそ話しづらかったのだろう。

 本のイメージは暖かい色。

 読み終えてすっきりした気分になる話。

 たったこれだけの情報では、たとえ図書館のレファレンスサービスを使ったとしても目当ての本を探し出すことは不可能ではなかろうか。

 自分も先輩と同様に深いため息が出そうだ。本人が思い出せない本を他人が探し出すこと自体、無理があったのかもしれない。もう少し手掛かりがあれば別なのだけれども。

 そう思って諦めかけた時だった。

 手掛かり。もう一つあるか。いや、一つではなく三つ。

 ――この三冊のどれかだと思ったんだけど違ったの。

 そんなことを先輩は言っていた。この三冊には目的の本と何らかの類似性、関連性があったということだろう。つまりこの三冊だと思わせた要因が少なからずあるはずだ。

 いわばこの三冊は先輩の記憶の欠片。目的の本を探すうえでのヒントが隠されている可能性がある。暖かい色がイメージの小説をやみくもに探すよりも、この三冊についてまず考えてみる価値はあると思う。

「この本、少し見てもいいですか?」

「うん」

 先輩から許可を得て、まず手に取ったのは――新潮文庫の『地獄変・偸盗』だった。まず目次を開いてみる。

 この本は芥川の短編集だった。本のタイトルにある『地獄変』や『偸盗』の他に『竜』、『往生絵巻おうじょうえまき』、『藪の中』、『六の宮の姫君』といった作品も収録されていた。自分の記憶だと『藪の中』だけは読んだ気がするけれども、他の作品は覚えていない。最近読んだわけでもないのだから仕方のないことだろう。人間の記憶は実に曖昧だ。とても先輩のことを責められる身ではない。作品名を見る限りでは、この短編集で暖かい色を表している小説はなさそうだ。

 次に手に取ったのは――梶井の『檸檬』。こちらは角川文庫版だ。この本もまた短編集であり、自分が読んだことのある作品が収録されていた。この本は一年前に読んだということもあって、どんな内容の作品なのか覚えていた。『檸檬』の方は暖かい色というイメージに当てはまるだろう。なぜなら檸檬の色は黄色だから。つまり暖色だ。先輩がこの作品に行き当たったことには頷ける。アプローチとして作品名から推測していくのも、いい方法なのかもしれない。内容という面から見ると、読んですっきりするかといえば少し違う気もする。

「一生懸命考えてくれるのは嬉しいんだけどね……。この本、今日までに図書室に返さないといけないから……」

 時計を見ると図書室が閉まる時間の五分前だった。先輩は椅子から立ち上がると、『地獄変・偸盗』と『檸檬』を持って部室を後にしようとする。

「『人間失格』は返さなくていいんですか?」

「それは図書室のじゃなくて部室にあった本だから」

「なるほど」

 文芸部には歴代の先輩が残した小説が並べられている本棚がある。どうやらそこにあったものらしい。

 先輩はすぐ戻ってくると言って歩いて行ってしまった。部室に一人残されて手持ち無沙汰になったので、先輩の探している本について再び考えてみることにした。

 読み終えてすっきりした気分になる話で、作品のイメージカラーは暖かい色。『地獄変・偸盗』、『檸檬』、『人間失格』のどれかだと思ったけれども読んでみたら違った。今のところ情報はこれだけだ。

 ここまで情報を整理したところで、そういえば太宰治の『人間失格』だけは、まだ手に取ってみていない。つい有名すぎて後回しにしてしまっていた。この小説は自分も以前に読んだことがある。中学一年の時に読書感想文を書く時に読んだはずだ。そもそも先輩は読んですっきりする話だと言っていたにもかかわらず、どうしてまたこの小説を手に取ったのだろう。

 机に置かれた角川文庫の『人間失格』を手に取って見てみる。昔、自分が本を買った時とは違う表紙のデザインになっている気がした。では前の装丁がどういうものだったかと言われるとそれは思い出せないけれども。

 自分の記憶をたどる限りでは『人間失格』は長編小説だったはずだ。他の二冊と違って短編集ではない。試しに本を開いてページをめくってみる。

「ん?」

 思わず声が出てしまった。中学生の頃の自分は読書感想文を書くことに必死でこれに気づかなかったのだろうか。

 あれ? いや、待てよ。

 これはもしかして……。

 たちまち頭の中で様々な情報が飛び交い始める。


 ――この三冊のどれかだと思ったんだけど違ったの。

 ――読み終えてすっきりした気分になったことは覚えているよ。

 ――私がその小説を読み終わった時のイメージが暖かい色なの。


 松原先輩が探しているのは――あの作品かもしれない。そうとなれば急いで図書室へ向かった方がいい。

 時計を確認すると図書室が閉まるまであと二分というところだった。部室を後にして階段を駆け下りる。「廊下を走るな!」という張り紙を横目に、図書室へと小走りしていく。廊下をそのまま進んでいくと突き当りにあるのが目的地の図書室だ。

 到着すると松原先輩がいた。今すぐにでも探している本について教えてあげたいことがあるのだけれども、ちょうど本の返却手続きをしているところだったので、話しかけることはできなかった。その代わりに図書室奥にある小説コーナーに向かう。先に本を探してみようと思ったのだった。しばらく探してみるも既に誰かに借りられているのか、それとも最初から図書室に置いていないのかわからないが、目当ての本は見つからなかった。

「どうしたの?」

 隣を見れば松原先輩がいるではないか。

「探している小説が何なのか、分かったかもしれないんです」

「ほ、本当に?」

「でもここにはありませんでした」

「じゃあ行こう」

「え? どこに?」

「本屋に」

 そう言って先輩は手を取り、すぐさま図書室から出た。廊下を走り、急いで階段を下りる。まるで青春小説のようだ。

 そんな馬鹿馬鹿しいことを考えていると、カバンを部室に置いてきていることに気がついて、今度は息を切らしながら階段を上がって部室へと戻っていくというギャグ展開。それからようやく学校を出て走ること数分。近くの本屋に到着した。おとなしい人だと思っていたけれど、案外活動的な人なのかもしれない。道中こけそうになりながらもついて行ったのだった。

 息を切らしながら本屋に入ったせいで店員から、「何があったんだ! この人たち」という視線を向けられた。

「なにも走らなくてもいいじゃないですか」

「売り切れたら、嫌だもん……」

 先輩、なかなか可愛くて面白いことを言うじゃないですか。溢れ出る笑みをこらえながら、とある作家のコーナーへ案内する。

「どれ?」

「この本です」

 そう言って一冊の文庫本を手渡したのだった。


お読みいただきありがとうございます。本作の続きは次話6月25日 レファレンスは突然に(解決編)で公開します。


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