6月14日 おさわ
「ねえ、おさわさん」
君はいつもそう言う。わたしの名前は「おさわ」ではない。「おざわ」だ。濁点を抜くだけで響きは随分と変わるもので、そんな風に呼ばれると思わず力が抜けるような感覚を毎度味わうことになる。
早い段階で名前が間違っていることを指摘しておけば良かったものの、たいした問題ではないと感じ、特に気にせずに受け流してしまったのが良くなかった。今さらながら「名前の読み、間違っているよ」と指摘したのなら、彼は今までの自身の行いを恥じることだろう。そして同時にどうして今まで黙っていたのかと思うことだろう。
「ねえ、おさわさん。聞いてる?」
「うん」
このまま偽りの名前で通し続けるのだろうか。それはいくら何でも無理がある。わたしと彼以外の誰かが会話に入ってきたりしたら、いつか発覚することは目に見えている。「おさわ」じゃなくて「おざわ」でしょ? と誰かが遅かれ早かれ気がついて指摘することだろう。今までにも危ういことはあったのだけれど、その時に居合わせていた人はおそらく自分の聞き間違いだろうと思ったのだろう。特に何も不審に思われることなくスルーされた。
「おさわさんはこの中だったらどれが良いと思う?」
「うーん、これかなあ」
「そうだよね。そう言うと思った」
そうだ。良いことを思いついた。わたしは幸いにも女性だ。結婚さえすれば名字を変えることができる。旦那の名字になってしまえば、もう今の名字ともおさらばというわけだ。これまで延々としてきた心配がなくなる。
わたしの結婚相手。優しくて、笑顔が素敵で、一緒にいて楽しくて、気を使いすぎることなく気楽な仲。それでいて稼ぎも生活に困らないほどにはある人物。
ああ、そうだ。すぐそばにいるじゃないか。
いつも彼のことはニックネームで呼んでいた。今日この時ばかりは名字で問いかけてみることにした。
「ねえ、たなか君、結婚しない?」
「え、結婚? どうしたどうした。急に」
「いや、ねえ……」
どうしたものだろう。自分の名字を変えたいと思ったからという訳のわからない理由を伝えるわけにもいくまい。
「ていうか、俺の名前。『たなか』じゃなくて『だなか』だから」
「『だなか』!」
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