5月28日 未完
車窓から外を眺めるとどんよりと曇った空がそこにはあった。今にも雨が降ってくるのではないかと思えるほどに重々しく暗い。プラットホームにはスーツケースを転がしながらせわしなく歩いていく人、客を乗り場へと案内する駅員、駅舎をバックに写真撮影する観光客、石炭を運ぶ長い貨物列車が見えた。
視線を車内に移すと中央には大人一人がかろうじて通れるほどの細い通路、その両側には二段に及ぶベッドがある。
がたん、と音をたてて列車はゆっくりと動き始めた。先ほどまで見ていた景色が後ろ後ろへと流れていく。しばらく進んだところで小雨が降り始め、窓に着いた水滴が尾を引きながら右へと移動していく。何の面白みも感じることなく、私はただそれを見ていた。
終点の駅に到着するまでの一週間、私はこの列車で生活をすることとなる。終着駅に特に何かと言って用事があるわけではない。半年前に妻に先立たれ、定年退職して特にやることもなくなった私は、食事や睡眠をただひとり自宅で行う日々につまらなさを感じた。特に何か疲れることをしているわけでもないが倦怠感のようなものを覚える始末だ。だからこうして確固たる目的という目的もなく、気分転換のような心持ちでこの長距離列車に乗車しようと思い立ったのだった。
広大な大陸を横断する鉄道の風景はさぞ感動的だと少しばかり期待してはいたものの、実際に乗車してみると木々が流れていく風景ばかりで小一時間で飽きてしまった。これなら母国で鉄道旅をした方がずっと有意義だったのかもしれない。
スマートフォンを取り出して見てみるが、事前に仕入れた情報通りインターネットの類は駅に停車している時以外はほとんど使えない。仕方なく、持ち込んだ本を取り出し、ベッドに寝転がりながら読書に耽った。次第に眠気に襲われ目を閉じ、夢の中へと入っていた。
翌朝、湯沸かし器に列ができていた。皆、これから朝食のようだ。私も彼らに倣って車両の入口近くにあるサモワールでお湯を入れることにした。始発の駅で購入したインスタント食品の口を開け、熱湯を注ぐ。そしてスプーンで混ぜていく。するとペースト状のイモが出来上がる。口に入れてみると少しざらつきが気になるが、味はそう悪くはなかった。
外を眺めるも昨日とさほど変わらない風景があるだけだ。読書の続きをするほかなかった。ちょうど一冊読み終えたところで列車は駅に到着する。三十分ほど停車するようだ。車内の乗客は荷物を置いたまま次々と外へ出ていく。私もベッドから降りて外へと出ると、数多くの露店が軒を連ねていた。
値段を見るとかなり安い。焼き魚、揚げた肉、サラダの類がトレーの上でラップやフタなど上にかけることなく、ただそのまま置かれていた。近くに売店があることに気づいた。値段は露店に比べると随分と高かったが、こちらでホットドッグを購入し、車内で食べることにした。
かなり濃い味付けだったが、まずくはなかった。食べ終えたところで列車はまた走り出す。
特にやることなく腕を伸ばし、あくびをしていると隣の男と目があった。
「君はどこから来たんだい?」
英語で話しかけられた。無精ひげを生やし、筋肉質の四十代くらいの男だ。私は母国の名を彼に英語で伝える。
「そうか、俺も三年くらい前に行ったことがある。確か……」
彼は観光で行った場所を列挙していくが、どれも私の母国のものではない。何やら勘違いしているようだ。私が指摘するとどうやら彼なりのジョークだったらしい。大きな声で笑っていた。つられて私も笑う。
「あなたはどの駅まで行くのですか?」
と、彼に訊ねてみた。
「次の駅で降りる。これから家に帰るところさ。家族に会うのは久々だ。君はどこまで行く?」
終点の駅の名を告げるとさぞかし驚いたようだ。目を丸くしてさらに聞いてくる。
「どうしてまた。観光か?」
「ええと……まあそんなところです」
「そうか。だったら次の駅を過ぎたところで右側の車窓を見ると良い」
「どういうことですか?」
「まあ、いいから。いいから。とりあえず右を見ておけ」
「ええ、そうですか……はい」
それから彼はしばらくして話していた通り次の駅で降りていく。ここはそれなりに大きな都市のようだ他にも乗客が次々と下車していった。
この鉄道旅をしようと思い立ったきっかけは極めて偶然のことだった。亡くなった妻は小説家だ。遺品の整理をしていた時に妻の小説原稿をたまたま見つけたのだった。試しに読んでみると大陸を横断する鉄道を舞台に書かれている物語だった。具体的な地名等が出てこなかったために現在利用している鉄道がモデルになっているかどうかは定かではない。最後まで読んでみるも物語の途中で文章は終わっていた。主人公が車窓から何かを見たことが記述されているものの、それ以降は続きが書かれていないため全くわからない。もしかしたら別の場所にあるのかもしれないと思い、さらに家の中を色々と探してみたが、物語の続きは出てはこなかった。妻の担当編集者に連絡を取って、訊ねてみたがそもそもこの物語の存在すら知らなかった。
妻はあの物語の続きをどのように描こうとしていたのだろう。彼女が生きていない今、物語はこの先も未完のままだ。
プラットホームを見ると、再会を果たしたカップルが幸せそうに抱き合っている。その姿を眺めているとなぜだかわからないが、むしろ私は淋しい気持ちで満たされていくような気がした。自然と車窓から目を背けて下を向いた。
ほどなくして列車はまたゆっくりと走行し始める。一度深いため息をついてから、あの無精ひげの男が言っていたことを思い出した。
そうだ。右を見るのだった。顔を車窓に向ける。するとその時だった。
これまで見たことのない美しい光景がそこにはあったのだった。
これはどう言葉に表したものだろう。ふさわしい表現が私には思いつかない。
ここで私はようやく、妻が遺した物語の意味を理解したような気がした。そもそもあの物語は未完なんかではなかったのだろう。彼女が未完の小説を書いたこと自体が私としては不自然だとずっと思っていた。一度書き始めた物語は絶対に完成させると生前盛んに息巻いていた彼女のことだ。簡単に筆を折るというのは考えにくい。
きっと妻はこの景色を見て言葉にならない感情を得たのではなかろうか。
今の私と同様に。
だから敢えて描かなかったのだろう。この美しい光景をただ文章にしてしまうのはあまりに惜しすぎる。心を奪われるほどのものを見て言語化できないのはある意味当然のことだろう。
私も彼女に倣って、このあたりで物語を終わりにしよう。
気がつけば重々しい灰色の空はどこかへと消え、明るい空色へと変わっているではないか。
少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマーク登録あるいは広告の下にある【☆☆☆☆☆】を押して評価していただけると幸いです。「いいね」を押していたけると作者のモチベーションアップになります!