5月6日 曲髭《きょくし》
昔、李愁という若者がいた。彼の特徴は何といっても髭である。顎から生える髭はへそまで及ぶ長さ。また、その一本一歩の毛は途中で曲がることなくまっすぐ伸びている。彼はそれを剃ろうとはしなかった。怠慢ではない。わざと伸ばしているのである。その髭は彼にとって大切なものであり、自慢のものであった。
そうはいっても李愁の長い髭は時おり煩わしさを与えた。食事の時や火を扱う時などは、一層気を配らなければならない。けれども彼はそれをものともせず伸ばし続けた。そうしてこれほどの長さに達してしまったというわけである。
そのような李愁はある日、湖へ訪れた。水面に映る自分の顔を見て怪訝な顔をした。
李愁は髭がやけに左に曲がっているように感じたのだ。自慢の長くてまっすぐな髭が曲がっているとなると、それは彼にとって好ましいことではなかった。一刻も早く直さねばと思って直そうとするが、風が吹いて水面が揺れるせいで直すことはできなかった。
その後も風は一向にやむ気配をみせなかったので、李愁は家に戻って鏡を見て直すことにしたのだった。
水を手に取り、髭をまっすぐに整えた。
そうして胸をなでおろしていると、ある約束を思い出した。その約束は湖で友人と会うというもの。湖へ行ったのは良いが、髭を気にしていたせいで約束をすっぽかしてしまっていたのだ。今頃、友人は一人淋しく待っていることだろう。そう思った李愁は急いで湖へ向かった。これでは直したばかりの髭がまた曲がってしまうということは、彼にも容易に予想できた。
しかし、李愁は友人との約束をすっぽかしてまで髭を気にするほど自惚れてはいない。だから彼は気にせず走ったのである。
そうして激しく息切れしながらも湖にやっとの思いでたどり着いたのだった。幸いにも友人の姿はそこにはあった。
李愁は曲がった髭を友人に見られて笑われるのを恐れた。自慢の髭を笑われるのは、この上ない屈辱である。
「李愁。待ちかねたぞ」
「すまぬ。髭を直していて」
「髭がどうかしたのか。いつもと変わらぬ気がするが」
李愁はその言葉を聞き、湖畔に赴き水面を見ようとした。この時、幸いにも風は吹いていなかった。実際に水面に映った髭を見ると、友人の言葉とは裏腹に髭は左に曲がっているように李愁は感じたのであった。
「何がいつもと変わらぬだ。いつもと比べて随分左寄りになっているではないか。嘘を言うでない」
「いや、吾輩にはそのように見えないが。お前の気にし過ぎではないのか」
この言葉を耳にした李愁は、この時初めて他人はそれほど自分の髭を気にかけていないのだと知ったのだった。
きょくし【曲髭】
本人が細かいことを気にしていても、他人はそれほど気にかけていないこと。
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