第17話 因幡・但馬平定と予兆
1日3回投稿していました今日からは1日2回投稿します
溜まったら増やしますがたまらなかったら1日1回にします(仕事次第)
とりあえず12時と20時で行きますのでよろしくお願いいたします
1518年6月
鳥取城にて講和の席が設けられた
尼子軍は山名誠豊の残党を組み込み但馬で蜂起した田結庄率いる山名祐豊軍を駆逐する方向になった
尼子政久は山名誠豊には鳥取城にいて欲しかったが「私が山名の当主だと見せつけてやりたい」と自ら先陣を買ってでた
なぜ桜井宗的も山名誠豊もこんなに忠誠誓うのか分からない部分はあったがこれを認めた
また山名氏の臣従の証として人質に山名豊定(祐豊の弟)を迎え山名誠豊は政久から一字貰い「山名政豊」と名乗る事になった
また垣屋氏と臣従を違った太田垣氏は許し所領は安堵。
俺の好きな吉岡定勝の一族吉岡氏を側近として出雲に迎え鳥取城は桜井宗的を城代にし功績の高い桜井宗的、塩冶興久、亀井秀綱を中心に参戦した諸将に所領の加増と褒美を取らせた
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1518年7月
因幡での戦後処理を終えると但馬に向け出陣
負傷兵や駐屯に少し兵を先尼子軍総勢1万と先に但馬で戦っている山名政豊率いる太田垣勢を中心とした3000
但馬各地に点在する反田結庄勢力2000
それらを集め総勢1万5千にも増えた軍で田結庄ら反尼子勢力と戦いを開始した
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政豊を許した効果は大きかった
四天王として牛耳ってきた中でもはや残るは田結庄のみ。
そんな田結庄に不満を抱いていたもの達は次々と尼子軍に投降
最終的に隠居していた祐豊の父で先代山名当主・致豊が田結庄氏を暗殺
自らの自害と引き換えに尼子軍への講和を申し出てきた
政久は「自害する必要は無い」として致豊を許し祐豊を政豊の養子にし但馬から出ていくことで講和
致豊は豊定とともに出雲へ人質となった
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但馬を平定した尼子政久は約束通り山名政豊を山名の当主として擁立。但馬を安堵し太田垣・垣屋らに「政豊殿を支え但馬をよく収めるべし」と言うと但馬から撤退を開始した
「此度の戦は上手く行きましたな」
そう桜井宗的が誇らしげに言う
その通りだ…上手く行きすぎて怖いくらいだ…史実を知ってるとはいえあまりにも上手く言って怖いほど
だが上手くいったのは事実。今回の戦いで山名を臣従させ直轄としては3カ国に広がり美作、備後、安芸でも勢力を拡大している
これは中国統一も近いと簡単に思っていた時急報が届く
「申し上げます!播磨の赤松氏が周辺国に尼子の討伐を呼びかけているとの事です!既に浦上、三村、三浦、宍戸、波多野、別所と言った有力者が呼び掛けに応じたとの事!」
その報告を聞いて俺は唖然とした
そんなの史実にねぇじゃん!!
そりゃこんな勢いがあったら恐るよね