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loving you

 どうしてだろう。

 どうして私は今、小春を探しているのだろう。

 市民会館の中にある、400席あまりの座席が並ぶ小ホール。私はその後方窓際の席に座り、まだまばらな参加者達をキョロキョロと見回していた。

 こんな所に小春が来る筈が無い。ここにはツーリング大会の参加者以外入ってこないし、そんな規模の小さい地元のイベントなんかに彼は来ない。

 今や名の知れた俳優なのだから。

 それでも私が彼の面影を追い求めるのは、遠いあの日の約束のせいだろう。


『また行こうね。サイクリング。……またいつか』

『ああ……またいつか』


 あの運命の日から、今年でもう10年になる。それなのに小春の力無い返事は、未だに頭の中で再現出来るのだから不思議だ。

 ずっと前に別れた男の事を、今でも想っているなんて――夫が知ったらきっと怒るだろう。あの人も私と似て嫉妬深いから。




 小春と別れる直接的な理由になった山崎哲とは、ほんのわずかな間しか続かなかった。

 悪い人ではなかったけれど、付き合う前の彼と真の彼とでは随分ギャップがあった。

 繊細で、情緒不安定で、口を開けば愚痴ばかり。そして常に愛を欲している。そういう人だった。

 決定的だったのは、あんなに私を愛してくれていたにも関わらず、私の気持ちを理解してくれなかった事。

 だからそれを彼に伝え、別れてもらった。彼は気を荒立てる様な事も無く、低い声で『君には遠道小春の方がお似合いだったのかもな』と言った。

 その言葉の影響も少なからずあったのだろう。その後は小春に似た男ばかりと付き合う様になった。要するに夢追い人だ。

 彼らの希望に輝く瞳を横目に見つつ、私は弁護士になる準備を着々と進めていた。20代の折り返し地点で夢が叶い、仕事に精を出す日々が続いた。

 そして去年、2年程付き合った彼と結婚。仕事の関係で出会った同業者だ。

 我ながら恵まれた人生だと思う。強いて言うなら若い頃は勉強ばかりで派手に遊んだり出来なかったが、大して未練も無い。

 今、とても幸せだ。




 いつの間にか、ホール内の席は半分程も埋まっていた。時計を見ると、ツーリング開始前の市長の挨拶とやらが始まるまであと20分だった。

 いくら今日暇だからといって、独りでこんなイベントに来るなんてどうかしていたのかも知れない。会話が弾んでいる前の席のカップルを眺め、そう思った。

 最初から彼に会える筈無いって分かってたのに。

 視線を窓の外に移す。カーテンは開け放たれ、穏やかな春の陽気が差し込んでいる。

 風で桜の花びらがひらひらと飛んでいくのを目で追いかけると、その先に自転車がズラリと並んでいた。大会の為に用意された物だろう。

 市民会館に到着したばかりの参加者達が、感心した様子でそれを眺めている。大学生ぐらいの集団に、カップル、親子連れが――

 ふと、そのうちひとりの男が目に留まった。

 Tシャツにジーンズというシンプルな服装、ゆるいパーマを掛けた髪型。季節外れのマスクとレトロ風の丸眼鏡に、強烈な違和感を覚えた。

 あれで変装のつもりなんだ。そう閃いて、合点がいった。同時に軽く吹き出してしまった。

 彼は妻と娘らしい2人と別れ、自転車の前に独りとどまった。

 今だ、今しかない。私は立ち上がり、小走りでホールを出た。

 待っててね、小春。




 ――それからの出来事は、はっきり覚えていない。

 まるで夢でも見ているかの様だった。小春は昔と変わらず、輝いた目をしていたから。

 最初はサプライズのつもりで、彼のファンを装って話し掛けた。小春は一瞬ぎょっとして眉をひそめたけれど、すぐに私だと気付いた様だった。

 しばらく、ぎこちない会話をした。

 また一緒にサイクリングする夢が叶ったね、と私は言った。彼は頷き、屈託の無い笑みを見せた。

 実際は彼が家族と来ていた為に並走は出来なかったが、その時の彼の笑顔に私は胸が熱くなった。

 そして罪の意識に苛まれつつも、私は次に会う約束を取り付けてしまった。

 旦那が出張の夜、私のマンションで、と。




 それが今夜だ。

 私は部屋の玄関で彼が来るのを待ち構えていた。さっきエントランスに到着した彼とインターホン越しに会話してから、妙に体が火照っていた。

 せわしなく指先を動かし、緊張を紛らわそうとする。ネイルをしていない私の手は、年相応にシワが刻まれていておばさんっぽく見えた。

 2度目のインターホンが鳴った。私は深呼吸してから、ドアを開けた。

「よう。悪いな、わざわざ時間作ってもらって」

「何言ってんの、時間作ってもらったのは私の方だよ。それより早く入って、バレたら大変でしょ」

 小春は苦笑しながら「お邪魔します」と言い、中に入った。

 彼は先日と同じ、眼鏡にマスク姿だった。しかし首から下は、少しきちんとした印象のポロシャツとスラックスに変わっている。

「え? それって……」

 靴を揃える彼の左手首に、懐かしい物がはまっていた。

「ん? ああ、これの事か」

 彼は気恥ずかしそうに左腕をかざした。

 銀の腕時計。文字盤のシンプルなデザインで確信した。

 これは、私がプレゼントした物だ。10年前の彼の誕生日に。

「まだ持っててくれたんだ……」

「だって、捨てるわけにもいかないだろ。せっかくこんな良い物くれたんだし」

「そっか。でも、まさか今日付けてきてくれるなんて……ありがとう」

「別にお礼言われる様な事じゃないって」

 小春は温かい笑みを零した。

 ただ単純に嬉しかった。彼が私に、こんな心遣いを見せてくれる事が。




 あらかじめ作っておいたカレーをテーブルに運ぶと、小春は子供の様にはしゃいだ。

 昔と変わらずひょうきんな彼の姿に、私の緊張もほぐれた。

 私達はカレーを食べながら、お互いの仕事について話した。

「まさか、毎日の様に小春をテレビで見る日がくるなんてね。あの頃は想像もしてなかったなぁ」

「そりゃそうだろ。あの頃の奈々は“あなたなんかが役者で食ってけるわけないじゃない”みたいな感じだったし」

「何それ。私そんな嫌味な感じだったの?」

「うん。俺が夢語るたんびに鼻でフンッて笑う、みたいな」

 私達は同時に吹き出した。小春にそんな風に思われていたなんて。確かに、そういう態度の時もあったかも知れないけれど。




 夕食を終えてコーヒーを飲んでいると、話題は懐かしいものへ移っていった。

「俺の高校のサイクリング部、もう大分前に廃部になっちゃったらしくてさ」

「えっ、そうなの? 何か寂しいね、私のところはどうなんだろう」

「まぁサイクリング部なんて元々マイナーだしな。俺達の代は多すぎたくらいだろ」

「そうだね。合同ツーリングも賑やかで楽しかったし」

「ああ」

 小春はふっと視線を逸らし、遠い目をした。

「あの頃の俺は……奈々に夢中だった。馬鹿みたいに」

 言葉に詰まった。彼の口調で、眼差しで、それが遥か昔の恋だったという事実に、今更ながら気付かされる。

 そう。小春にとっての私も、私にとっての小春も、全部思い出だったんだ。美しすぎる思い出。

「ねぇ。奥さんに何て言ってここへ来たの」

「え?」

 小春の顔色が変わった。驚いている様な呆けている様な顔だった。やがてそれは引き締まった表情へと変化していった。

「……泊まり掛けの仕事だって言った」

「そしたら何て言ったの? 彼女は」

「無理しないでねって。いつもそう言ってくれる」

「優しいんだね」

「そう。それに芯が通ってる。俺が自分を見失うと、母親みたいに叱ってくれるんだ」

 彼の大きな目は鋭く光り、現実を見据えていた。

 不意に音楽が流れた。給湯器だ。

 私は一呼吸置いてから切り出した。出来るだけ自然に、さりげなく。

「あ、お風呂沸いたみたい。先に入る?」

 彼は思いつめた様な表情で私を見据えた。そして少しだけ目を伏せてこう言った。

「ごめん。今日は泊まれない」

 やっぱり。予想していた反応だったけれど、胸が痛んだ。これで良かった筈なのに。

「“今日は”じゃない。ずっとでしょ?」

「……本当にごめん。俺――」

「いいの。私もただ懐かしくて、会いたかっただけ。勘違いしないで」

 笑いながらそう言ったつもりだったのに笑顔が上手く作れなくて、視界が滲み出す。

 考えるより先に、私は小春に抱き着いていた。

「奈々……」

「先に私が謝らなくちゃいけなかった。あの時は、ごめんね。私、あんな酷い別れ方して……わがままだった」

「いいんだよ。もう昔の事だろ?」

 彼は私の肩に腕を回した。相変わらずぎこちないけれど、優しい抱擁だった。

「うん……でも、誤解してほしくなくて。私……あなたが私のせいで夢を諦めたら、どうしようって……」

 啜り泣きながら、私は必死に言葉を紡いだ。

「だから……あなたが幸せで、本当に良かった」

 そう。本当に良かった。心から思える。

「俺もだよ。俺も奈々が幸せで嬉しい」

 本当に本当に、良かった。何度も胸の内で繰り返す。


 春の、温かな夜だった。




最後までお読みいただきありがとうございます。

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