愛する人、愛してくれる人
苛立たしい程、蒸し暑い夏。私は駅前の人混みの真ん中で、彼を待っていた。
日よけ帽子のつばをずり下げ、ハンカチで汗を拭く。これではシャワーを浴びてきた意味が無い。ため息を吐いた。
どうせいつも待たされるのだから、しばらく喫茶店かどこかで時間を潰せばいいのに。それをためらってしまう自分に腹が立つ。
やっぱり私は、彼から離れられない。そんな気がした。
――遠くから、猛スピードでこちらに近付いてくる人影に気付く。Tシャツにジーンズというシンプルな服装、ゆるいパーマを掛けた髪型。
「奈々……遅れてごめん!」
荒い息の隙間を縫って、小春は言った。顔が真っ赤に上気している。
急いで来るなら、最初から時間に間に合う様に計算すればいいのに。どうせ大した用も無いのだから。
「ううん、大丈夫。今日は私も遅かったの」
「ほんと? 良かったぁ」
小春は心の底から安堵しているかの様な笑みを浮かべた。こんな嘘くらい、見抜いてほしい。
ふと、彼の膝についた手に視線を下ろす。彼は腕時計をつけていなかった。
私が先日――彼の誕生日にプレゼントしたばかりの、銀の腕時計を。
「よし、じゃあ早速映画館行くか! ここ暑いしさ」
「うん、行こ」
遅れてきたくせに、彼は私を急かす様に歩き出した。
こうして、全くときめかないデートが始まる。
私と小春が出会ったのは、高校生の時だった。
当時私はサイクリング部という風変わりな部活に入っていた。サイクリングといってもレースはせず、長距離をゆっくりと走るだけの穏やかな活動をしていた。
偶然近くの高校でも同じ部活があり、この2校では度々合同ツーリングが行われた。その相手校に所属していたのが小春だったのだ。
初めて会った時は、うちの学校にいない様な甘いルックスを持つ彼に少し惹かれた。
けれど、性格を知ってすぐに幻滅した。彼は単純で、お調子者で、馬鹿で、当時の私が一番嫌いなタイプの男だった。
にも関わらず、今度は彼が私を好きになってしまった。
彼は私語が禁止されているツーリング中にこっそり話し掛けてきたり、LINE交換を迫ったり、分かりやすいアプローチを仕掛けてきた。
その度に私は彼を冷たくあしらった。でも、彼は冷たくされている事にさえ気付いていない様だった。
そんな彼のまっすぐさが、いつしか愛おしくなっていた。こんな男あり得ないとどこかで感じていながら、私は彼の告白に頷いてしまった。
あれから4年の歳月が流れた。高校卒業後、私は大学生に、小春は専門学校を経て役者になった。
しかし彼はまだ、役者の収入だけでは暮らしていけない。バイトをいくつか掛け持ちして何とか食いつないでいた。
彼はそんな現実から、目を逸らし続けていたのだ。
映画のスタッフロールが終わり、小春と顔を見合わせた時。耳の後ろで、血液が脈打つ音が聞こえた気がした。
私達が観たその映画は、超能力を持った主人公が悪の組織と戦うというありがちな設定のものだった。
私の気を引いたのは、主人公の友人である売れない俳優の役だった。彼は主人公からも呆れられる程夢見がちな性格で、真剣に大ブレイクを目指していた。
そんな青くさいところが、小春にそっくりだったのだ。
「いやー、面白かったな」
「そうだね。割と王道な感じだけど、新鮮さもあったし」
「だよな!」
席を離れながら言葉を交わす。
あの話題を切り出すかどうか迷って、少し黙った。小春もそれ以上話し掛けてこなかった。微妙な空気が流れた様に感じた。
観念して口を開く。
「ねぇ。もしあの映画に小春が出るなら、どの役やりたい?」
この訊き方なら、彼の口から自然にあの役の話が出るかも知れない。私はわずかな期待を胸に、彼の反応を待った。
「えー、そうだなぁ。やっぱ主人公かな」
「……そっか」
「うん。すげーかっこいいし。ヒーローって男の憧れだもんなぁ」
期待した私が馬鹿だったんだと思い知らされた。
この4年間、私の気持ちは行ったり来たりを繰り返していた。
私は少年の様に無邪気な彼が好きでもあり、また嫌いでもあった。彼の些細な言動によって、好きと嫌いのバロメーターは大きく変動した。
けれどもう、限界が近付いているのかも知れない。
「じゃあ、俺これからバイトだから」
小春は唐突に私の方を振り返り、そう宣言した。気付けば辺りは暗くなり始めていた。
映画館、喫茶店、ショッピングモール。今日もいつもの街で、いつも通りの事しかしていない。
「うん、またね」
彼は黙ったまま動かない。固い表情をしている。またお決まりの儀式だ。
たっぷり間を置いてから、彼は私の肩をがっしり掴んでおもむろにキスをした。
舌を少しねじ込み、遠慮がちに歯を舐めてすぐに引っ込める。
そして唇を離し、周囲の様子をキョロキョロとうかがう。
「じゃあな」
私が言葉を発する前に、彼は走り去っていった。
鉛でも背負わされたかの様に、ずしんと体が重くなった。長い長い息を吐く。
彼は最後まで気が付かなかった。今日が付き合い始めて4年の記念日だという事に。
サイドテーブルに置かれたスマートホンを取って、またベッドに潜り込んだ。薄暗い部屋の中で、それは青白い光を放つ。
画面の向こうを見やると、隣に寝そべる山崎さんは目を細めてこちらを見つめていた。眼鏡を掛けていない時の彼は、普段より優しい感じがする。
彼との微妙な関係が始まって、まだ2ヶ月程しか経っていない筈だ。なのに、彼の存在は私の脳内でとても大きな割合を占めていた。
理性的でいられない自分が怖かった。また画面に視線を戻して、ニュースサイトを開く。どうでもいい記事に目を走らせる。
「小春君、なのか」
「え? ……ううん、別に誰かとやりとりしてるわけじゃないよ」
スマホから目を離さずに答える。
「そう。ちょっと安心した」
落ち着いた声で彼は呟く。
ちょっと安心した。そんな何気ない言葉に心を揺さぶられる自分が嫌だった。
山崎さん。数合わせで呼ばれた合コンで偶然出会った、ただそれだけの人。軽い気持ちで持ってしまった肉体関係を、今日まで引きずってしまった相手。
6つも年上なのに、何故か私に敬意を払う人。ほとんど無条件に、私を愛してくれる人。
「奈々ちゃん。俺の事、どう思う?」
もう何度目か分からないその問い掛けに、スマホを置いて慎重に答える。
「山崎さんは、とっても大切な人だよ。出来る事ならずっと一緒にいたい」
「じゃあ、小春君よりも俺を愛してくれる?」
「それは……」
二の句が継げなかった。そんな事を訊かれたのは初めてだ。
山崎さんは、私に彼氏がいても許してくれる。勝手にそう信じ込んでいた。
私が曖昧な表情のままフリーズしてしまうと、彼は爽やかに笑って私を抱き寄せた。
切れ長の目でしっかり私を見据えると、そっとキスをする。優しいけれど、深く、深く。
「……いいんだ。奈々ちゃんが俺と会ってくれるなら。俺にとっては、君が一番だよ」
彼の胸板に頬を寄せた。ごめんなさい、と言った声が震える。
黙って私の髪を撫でてくれるその手は、やっぱり温かった。