2 黒の魔導士※
すでにして聖女然とした風格を備えたミユキが、ウォルフガングの横で目をしばたく。
どんな悪意も感じられない、清楚な美貌。潤んだような黒い瞳に、瑞々しい唇。アキラを見て、おっとりと微笑んだ。
一方、ウォルフガングは明らかに腹に一物あるとしか思えない、剣呑な光を瞳に宿していた。
「これはこれは、お早いお帰りで。この短い間にどんな心境の変化があったのやら。ぜひ説明願いたいね」
唇の端を持ち上げて、にこりと笑う。
(この人見た目通りの「天使」じゃない。この若さで、こんな試験の責任者になるだけある人なんだ)
張りつめた空気を肌に感じつつ、アキラは一歩もひかないと決めて目を見返す。
「気が変わっただけです」
周囲からの視線が痛い。
もちろん、いろんな理屈をめまぐるしく考えた。だが、一番の理由に比べれば全部言い訳だった。理屈をこねて看破されるくらいなら、居直った方がマシだ。
「ふぅん。何故なんだろう」
寄り添うように立っていたミユキの元を離れて、ウォルフガングが近づいてくる。
スバルとアランの空気が変わった。
「手は出さないでね」
小声で言ったところで、間近で対峙することになる。
無言のまま、ウォルフガングはアキラの目を見つめた。
無策のアキラは、負けじと見返すのみ。
(ものすごく綺麗なひとだと思っていたけど、女の人っぽさは全然ないな。背も高いし、見た目ほど細くもなさそう。鍛えている……?)
繊細な顔立ちから、つい華奢なイメージを抱いてしまっていたが、近づいてみればそれが誤りだったと知れた。
一方で、ウォルフガングも当然アキラを見ていた。
「格別背が高いわけでもないし、腕力がありそうにも見えない。『男性』というだけで、身体能力の面から有利になることはなさそうだ。あとは……」
ふっとウォルフガングが小さく噴き出した。
(何……?)
今の笑いは何!? と焦って目をみはったアキラの耳元に、身を乗り出して唇を寄せてきた。
「一応言っとく。他の候補者に色仕掛けはするなよ」
「いろ……!?」
わたしが!? という悲鳴はもちろん口には出さずに心の中だけで。
「君のような、うつくしい男が好きな娘もそれなりにいるだろう。手を出すのはもってのほかだが、気持ちを弄んで駆け引きをするのも駄目だ。彼女たちには試験に集中してもらいたい」
耳に注ぎ込まれているのは、辛辣さを包み隠してはいるものの、決して好意的ではない忠告だ。
「『彼女たちには』なんて、まるでわたしには試験が関係ないみたいな言い草ですね」
「おっと失礼。『試験の参加を認める』と言ったつもりだ。通じてなかった?」
再び向き直ったウォルフガングは、ひどく感じの良い笑みを浮かべていた。
反射的に微笑みながら、アキラは頬が引きつらないように反発を気合で抑え込んだ。
(参加しても選考対象外って言われたような気もしてるんですけどね……!)
それにしても、心変わりの理由を問い詰められなくて良かった。
ミユキが、他の候補者に害を成すような気がしただなんて、今は言っても信じてもらえないだろう。自分自身でさえ、半信半疑なのだ。何もないならそれに越したことはない。
ウォルフガングの視線が逸れたタイミングで、アキラはつい、ほっと小さく息を吐き出した。
その瞬間、アキラを見てもいなかったウォルフガングが、腕を伸ばしてアキラを引き寄せて胸に抱き込んだ。
「『男』は『男』で使いようがある。初めから不参加なんか認める気はなかった。あれほど過酷な試験を、女性限定にしておく利点が私にはよくわからなくてね。せいぜい面白味のある結果を出してくれ。早々に脱落するなよ」
抵抗を許さないほどの力強い腕、固い胸板の感触。
自分の身体に触れられているというショック。
ろくに反応ができなくなったアキラの手首を、スバルが勢いよく引いた。
「お戯れが過ぎると思うのですが、殿下。さっきも言いましたよね。候補者にみだりに触れるなっつーの。なんで『男』だったら触っていいと思ってんの。おかしいでしょ」
「失礼。少し男同士の話を」
「それこそ余計ですよ。試験官に個人的な会話を強制されても迷惑なだけです。他の候補者から邪推されるかもしれませんし。もう少し慎重な行動をお願いしたいところですね」
「ス、スバル……」
(王子様相手にそこまで言って大丈夫なの? 身分制度はよくわからないけど、まずくない?)
事前に手を出さないでって言っても、結局これだよー! と内心叫ぶアキラ。咎める視線は感じているはずなのに、スバルはつんとそっぽを向いている。反省する気は一切なさそうだ。
聞こえよがしな溜息が耳に届いたのはその時だった。
視線を巡らせた先にいたのは、ミユキとともに佇んでいた黒髪の男。
目を細めて呆れ切った顔をしており、嫌そうに首を振っていた。
「スバル、相変わらずだな。立場をわきまえろ」
* * *
(ミユキの魔導士だ……)
艶やかな黒髪を黒装束の肩に流して、純白のドレスをまとったミユキと並ぶ姿は一幅の絵のように様になっている。
姿形の類似は、二人に近しい血縁があることをうかがわせた。
「レグルスです。スバルのライバル。当代随一と名高い天才魔導士ですよ」
近づいてきたアランが、スバルの手をアキラの手首から外させつつ、耳打ちしてきた。
「学院時代の同級生なんだっけ?」
「スバルも天才の類なんですけどね。レグルスと同期だったせいで万年次席です。恨み骨髄ですよ」
普段ならすかさず食ってかかってくるスバルだが、この時はレグルスに牙をむくのに忙しそうだった。
「立場をわきまえろって、お前は何様だよ。ただの参加者の護衛なんだから、うちの事情に首つっこんでんじゃねえよ」
「何やら殿下に余計な手間をかけさせているようだが。正直、見るに堪えん」
「見なきゃいいんじゃないの~? はいはい、後ろ向いて後ろ。オレだってお前の顔なんか見たくねーし」
アキラは二人から目を離さぬまま、アランにこっそりと尋ねた。
「この世界の天才の会話って、あんな感じなの?」
「非常に呆れているのは伝わってきますけど、ご安心ください。私も目いっぱい呆れています」
「安心……」
その時、レグルスの視線が自分に向けられていることに気付いてしまった。
長めの前髪がかかった目元は切れ長で鋭く、口元まで厳しい。硬質に整った美貌はある種の潔癖さを思わせ、親しみやすい要素はどこにも見いだせなかった。
「『聖女』候補か。お前のところは随分変わった『乙女』を擁立してきたな。『女性』には見えないんだが」
「なんだ。うちのアキラに文句でもあんのか。喧嘩ならオレが買うぞ」
レグルスの視線を遮るように、スバルがアキラの前に立つ。
「お前が? 手加減はしないぞ」
不穏な返答に対して、スバルの身体からゆらっと何かが立ち上った。
思わず、アキラは手を伸ばしてスバルの腕に手をかけた。ぎゅっと指に力を込める。
「喧嘩しない。今そういう場じゃないでしょ」
「売ってんの向こうだから。買わないと買えないのかなって舐められるでしょ」
「舐めさせておけばいいじゃない。押し売りなんか相手にしてもいいことないから」
内輪の会話にしては遠慮のない音量で言い合う二人の横で、アランはおっとりと微笑みかけていた。
その相手は、レグルスの後ろからひょこっと顔を出して愛想よく手を振っている少年である。
「だいたい、あの人たぶんそんなに悪い人じゃないよ」
喧嘩腰のスバルに対し、アキラは噛んで含ませるように言った。
「え、なに? なんて言った? よく聞こえなかったんだけど」
「悪い人じゃないよって。わたしのこと迷わず『男』って言ったし。殿下なんか『男か?』って言ったのに、だよ。自分でも落ち込みそうだったけど、あの人に勇気もらっちゃったよわたし」
スバルが、笑顔のまま、硬直した。
ものすごく言いたいことは渦巻いているが、諸般の事情から口に出すことはできない、と澄んだアイスブルーの瞳がいらただしげに告げていた。
口の減らないスバルを奇跡的に黙らせることに成功したアキラは、レグルスに向き直るとふわりと微笑みかけた。
「仰る通り、わたしは『男』です。『聖女』には向かないだろうと試験は辞退するつもりでしたが、先程撤回したところです。殿下のお許しも出たところで、試験には参加させて頂きます。良きライバルとして、正々堂々戦いましょうね」
半分以上は、しずかな微笑みを浮かべて事態を見守っているミユキに対しての宣戦布告。
レグルスの相手はスバルに任せるつもりだし、後ろでにこにこ愛想を振りまいている剣士はアランがなんとかしてくれるはず。
(聖女試験、そもそもわたしは勝ち上がれない。だけどミユキがもしあのミユキなら、他の候補者を陥れるのは防がないと。この世界のことはよくわからないけど、ああいう、わからない人にはわからないやり方でいじめや悪事をするような人が『聖女』に選ばれていいはずがない……!)
しぜん、視線に切実で真剣なものが入り混じるアキラを、レグルスは純黒の瞳でいぶかしげに見つめていた。