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3 くちびるの記憶

 頭の中に、水が詰まってる。


(地底湖に落ちた……)


 大量の水を飲んだ。ものすごく苦しかった。意識が飛ぶ寸前、誰かが名を叫び、腕を掴んだ。

 覚えはあるが、記憶違いかもしれない。


 彼は。

 一度たりとて、名前を呼ぶことなどなかった。

 皮肉っぽく笑い、距離を置き、かと思えば苛立ちを漂わせていた。

 護衛と守るべき者の関係だから、死なせないようには配慮はしていたかもしれないけれど。

 知っている。


 個人としてのアキラは、彼に、決して「生きていること」を望まれる関係性にない。


 もし組み替えがなければ、ミユキの命に従って、彼はアキラを殺そうとしていたかもしれない。

 今はただ、互いの目的の為に同じ時間を過ごしているだけ。

 ボタンを掛け違えただけの状態。

 迷宮を出たら、正しく敵同士に戻ることが動かしがたく決まっている。


 アキラは重い瞼をなんとかこじ開けようとしていた。

(目が開かない……。指の一本も動かない)

 ほんの小さな動作にものすごく時間がかかる。それでいて満足な成果が得られない。

「ん……」

 ようやくほんの少し身じろぎをしたときに、吐息に紛れて呻き声がこぼれた。

 その瞬間、身体が何かに支えられていると感じた。

 ()()()()()()


「アキラ」

 囁きで名を呼ばれる。

 ほんの少ししか開かない目で、一生懸命光を探ると、すぐそばに、ひどく心配そうに歪められた瞳があるのが見えた。

「レグ……さん……?」

 胸が潰れそうなほど切ない色を宿している。

(どうしたの?)

 もどかしいほどに声が出ない。

 しかも、瞼がすぐにおりてしまう。

 眠りたくなんかないのに。

 全力で抗うも、歯が立たない。

 おそらく、肌が溶けそうなほどのぬくもりに包み込まれているせいだ。


「わたし……」

 もはや目を瞑ったまま呟くと、間近な位置でひっそりと溜息をつく気配があった。

「どうして信じてしまったのだろう。こうして見れば、君はあきらかに」

 言葉はそこで途絶えた。

「なに……?」

 なんとか声を絞り出す。

 その声が。

 すっと飲み込まれた。

 後頭部を手でおさえられている。大きな手だ。身体ごとやや傾けられ、唇には何かしっとりとすいつくように柔らかなものが押し当てられている。

「ん……」

 苦しくて唇を半分くらい開いたら、何かがぐっと押し入ってきて、口腔内を侵略しはじめた。


(なんだろう。頭がぼーっとする。何も考えられない……)

 唇の中を探られているうちに、全身がじんと痺れて来て、意識はふたたび落ちて行った。


          *


 状況が。

 理解できません。


 目を覚ましたら、辺りは明るく暖かかった。

 肉の焼け焦げる匂いがしていた。なんとか首をひねって見てみたところ、魔物の死骸を盛大に燃やしているようだった。キャンプファイヤーや護摩壇のように赤々と、煌々と。

 身体は何かに固定されていた。

 すごく近いところにレグルスの顎が見えて、どうやら胡坐をかいた膝に抱え上げられているらしいと見当がついた。

 無表情だ。

 起きていることに気付いていても不思議はないのに、反応がない。

 声をかけるべきか考え込んでいたら、深く暗澹たる溜息をつかれた。


「あまり見るな」

 やっぱり気付いていたのか、と思いながら視線を逃す。

 まだ迷宮の下層にいるようだと、むきだしの岩肌をゆっくりと目で追っているうちに、首ががくんと後ろに落ちた。

 すぐに、レグルスの腕が背から首の後ろにまわされて、支えられた。


「わたし、気を失っていましたか」

「溺れたからな」

「こんなに火を焚いていて大丈夫なんですか。目立ちそう」

「向かって来た魔物は全部燃やしている。服も濡れていたし、体温も落ちていたし、身体を温める必要があった」

 なるほど。

 とは思うものの、ただの説明であるはずなのにレグルスの表情がいやに暗い。


「どのくらい? もしかしてかなり長いこと……?」

 どうにも強張った身体でもぞもぞと動く。

 違和感。

 なんだろうと考えて、レグルスのやや重たい外套にくるまれていると気付く。体温が落ちていたから?

 抱きかかえているレグルスも腕や足がしびれてしまっているかもしれない。

「時間的にはそれほど……。ずいぶん水も飲んでいたみたいだが、蘇生できてよかった」

「蘇生!? わー……、ほんとすいません」

 死ぬかと思ったけど、実際危なかったんだなぁという実感もあり、素直に謝罪する。

 それにつけてもレグルスの表情はいつまでも薄暗いままだ。


「その……、他にも何か?」

 いちいち重圧を感じて、何を聞くにも及び腰になってしまう。

 しかもレグルスには今一度、大きく溜息をつかれてしまった。

「何かは、ある」

 死ぬほど言いにくそうに呟かれた。

「…………聞いても?」

 前に進めないですし?


(チームだし。情報の共有は必要だよね)


 あの自信満々のレグルスがこれほどまでに打ちのめされているのだ。どんな悪い知らせであっても、まずはきちんと受け止めて、できれば冷静に打開方法を考えよう。

 そう思った矢先に。

 レグルスに今一度抱え直され、膝の上に座るような体勢にされた。

 そして、伏し目がちに、嫌そうに視線を向けられた。


「復元は諦めた」

「なんのです?」

 いまいち要領を得ないと、その秀麗な横顔に向かって聞き返してしまう。近くで見ても、呆気にとられるほど綺麗な造形をしているな、との感想を抱きつつ。

 そんなアキラの内心など聞こえるわけでもないだろうに、レグルスから不意に鋭い視線を向けられた。

 彼らしくもなく、唇をわななかせてから、不意にアキラを支えていない方の左手を伸ばしてきて、人差し指で唇にふれてきた。


「必要があったので、応急手当を施した」

 言われた内容を頭の中で繰り返してから、アキラは(ああ……)と得心がいって頷いた。

「人工呼吸、ですか」

 唇に置かれたままの指が、つっと撫ぜるように動く。

(マウストゥマウス……ってことだよね。うわー、もしかしてファーストキスというものでは……?)

 意識がない間の出来事とはいえ、レグルスと自分がそれをした、という現実感のなさに動揺しそうになったが、悟られぬようにぐっと堪えて無表情を保とうとした。

 なのに、ゆっくりと唇の上を移動して、何度も触れてくる指に無理やりに意識をもっていかれそうになる。


「それから、濡れた服に体温を奪われていたので、服を脱がせた」

「はい……」

 答えてから、少しだけ考える。

 考える。

 ……考えて、恐る恐る自分の身体に目を向ける。生成りのような、キャメルのような色の固い布に包まれた身体がいまどうなっているか確認はできなかったが。

 やけに胸元が清々しいというか、圧迫を何も感じないことには気づいた。


「脱がせた……」

 唇に触れていた指が、ふっと離れていった。

「裸だ。全部剥いだからな。魔物が集まってきて、炎を燃やせるようになってから服は乾いたが、復元は諦めた。あの布を巻き付けようにも、余計なところに触るのは避けられない。自分でやってくれ」

「ええと……」

 復元ってそういう。脱がせたものを、着せることができなかったっていう。

 頭の中で色々繋がってはくるのだが、それがどういう意味を持つのかは考えたくなかった。

(確かめないわけにはいかないけど)


「見ました……?」


 声の震えをおさえながら、恐る恐る尋ねる。

 レグルスが視線を向けてきた。


 あ、馬鹿なこと聞いたな、と返事をされる前から痛いほどに自覚した。

「見た」

 簡素な答えとともに、なぜかレグルスの方が唇を噛みしめて俯いてしまう。


(そこまで落ち込まなくても……)

 どこからどう見ても沈み切った態度に、逆にアキラの方が落ち込みそびれてしまう。

 どうしてそこまで苦し気なのかはわからないが、レグルスははっきりと苦しんでいた。


「び、びっくりしましたよね。あ、でもどうなんだろう。少しくらいは疑ってたのかな。成り行きとはいえ、結構接触ありましたし。女性でも通じるのでは? なんて言ってましたもんね。その、まさか」

「君は」

 急に。

 背中を支えていた腕でがくんと揺すぶられる。

 腕一本で軽々と扱われてしまう体格差に、今更ながらに気付かされて思わず口をつぐむ。

 レグルスのまなざしはひたすらに、昏い。


「何をぺらぺらと喋っているんだ。怒っていいところだぞ!? 意識がない間に、唇を奪われ、服を脱がされていたんだ。他にも何かされていないかと、俺を疑って責めていいところなんだが!?」

「いや、でも、救命措置ですよね? そこでギャーギャーいうのは違うかなって。くちびる……でもレグルスさんだってしたくてしたわけじゃないでしょうし」

 思ったままを言ったのに、レグルスに思い切り睨みつけられた。

(なに……!?)


「というか、わたしじゃなくて、怒っているのはレグルスさんでは? こう……、不本意、みたいな」

 何を言っても、レグルスの傾きまくった機嫌は直る兆しもない

 それどころか、烈しく苛立った調子で責められた。

「女だとは思っていなかった。まず、男と偽る意味が一切ないからな。しかも君は飾り気がないし、態度もそっけなく媚びもない。だから本当に、疑ってすらいなかった」


 バレてる……。

(そりゃバレるよね。裸を見ちゃったら気付かないわけがない。……この身体の持ち主にも、悪いことしちゃったな)

 唇も裸も、意識がないまま男の人にゆだねてしまった。申し訳なさすぎる。

 しかもレグルスはレグルスで、何か猛烈に怒っているし。


「なんで男のふりをしていたかは今は言いたくないんですが……。びっくりさせたことは謝ります。だけどそろそろ諦めて頂けませんか……?」

「何をだ?」

 斬りつけるような調子で言われて、アキラもまた溜息を堪えながら答えた。

「どなたか、申し訳なく思う相手がいて怒っているのかと。緊急事態とはいえ、女性相手にするつもりのないことをしてしまって……。ただ、これは本当に仕方のないことだったと思いますし、もし言い訳の必要な場面があれば私も口添えしますので」

「何を言っている?」

 いつになく察しの悪い調子で言われて、アキラは自分の説明はそこまで下手なのかと情けない思いをまなざしにのせてレグルスを見た。


「あなたは、わたしに対してやましい気持ちなどなく、唇を重ねたのも業務の一環であり、事故でやむなくだと。そうでなければ、そんなことをするはずなどないと。身の潔白を告げねばならぬ相手がいるのなら、わたしもきちんと説明すると言っているのです」

 切々と、一言一言わかりやすく言ったはずなのに、レグルスには恐ろしいまでに凍てついた目で見返されただけだった。

 その上で、冷ややかに言われた。


「記憶にないんだな」

「それは……意識がなかったときのことなので」

 さすがにそこは責められるいわれはないのでは。

 ムッとして言い返した視線の先で、レグルスは奇妙に優しい笑みを浮かべてから小さく吐息した。


「自分で自分に呆れているんだが。俺は自分で思っているよりも、衝動的な性格らしい。意識がないのをいいことに、必要のないこともした」

「何を言っているんです?」

 衝動……? と首を傾げたところで、後頭部を手で支えられる。

 この感覚には何か覚えがある、と思ったところで。


 軽く瞼を閉ざしたレグルスに、抵抗する間もなく唇を重ねられていた。

 

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