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8 壁一枚

 甘い匂いがする、とスバルが呟いた。


「なんすか? 全然わかんないすけど」


 カストルが無造作に答える。


「わかんないだろうね。魔力の痕跡。甘くて胸焼けしそう」

魅了(チャーム)か」


 (いか)めしい顔つきで耳を傾けていた姫君が、忌々し気に呟いた。


「おかげで、ついさっきまでここに誰かがいたっていう、確信にはつながっているんだけど。だけどなんだろう……ひっかかるんだよな。薄い膜を一枚隔てたような違和感っていうか」

「やっぱり、天才じゃないからイマイチわからないんですか?」


 いちいち茶々を入れるカストルにスバルが回し蹴りを放つ。見た目通りの俊敏さで、わざとすれすれのところでかわしたカストルは、にやりと笑ってみせた。


「お前の連れにはなかなか会わないな。迷いようもない一本道だというのに。まさか、最初の分岐で左右間違えたのか?」


 とぼとぼと歩くエルハに、姫君が切りつけるように声をかける。

 自分に矛先が向くのは予期していただろうが、うへ、と肩をすくめてからエルハがぼそぼそと言った。


「それはない。聞く気があるなら言うが、距離や時間で考えれば、もうとっくに現場についていないとおかしいんだ。だけど、それらしい開けた空間もなければ、痕跡もない。魔導士の言うことが的を射ているように思う。薄い膜を隔てたような……」


 耳を傾けていた姫君が、足を止め、ぴたりと壁に手を当てた。


「スバル。この壁壊せるか?」

「出来なくはないけど、迷宮が怒って反撃してくるかも」

「返り討ちにしろ」


 さらりと言い放つ姫君を、スバルが辟易したように見た。


「人使い荒いな」

「王族に向かって何を今さら。生まれたときから人を顎で使って生きて来たんだ。それで仕事や雇用も生まれるから臣下との関係が成り立っている。下手にトップが質素な生活を推奨し、自分のことは自分でやるなんて言ってみろ。国民全部が『それ以上』を望めない生活になる。なかなかの害悪だぞ、清貧でわがままを言わない支配層というのは」


 吊り目をさらにキリリと吊り上げ、口元に笑みを浮かべて姫君は言い切った。


「それはまぁ、上に立つ人間がその辺わきまえていないと、経済どころか芸術や文化も衰退するし? 娯楽なんて腹の足しにならないものは、余裕のある人間が引き立てていかないと、日銭稼ぎの労働に紛れて消えていっちゃうていう。最悪、害悪認定されるし。って理屈ではわかるんだけど。『一曲所望する』ノリで一爆発願われてもな。……迷宮が警戒している」


 軽く握った拳で壁をコツンと叩いて、スバルは微笑を浮かべた。


 カストルが不意に表情を消し去り、周囲を見回す。

 強烈な視線を叩き込まれるような感覚が全方位から襲い掛かってきて、エルハは目を白黒させながら首をすくめた。


「な、なんだいまのはっ!?」


 音無き音が、耳の奥で荒れ狂う。

 姫君は顔をしかめて、左右を順に睨みつけた。

 誰もいない。壁があるだけだ。

 異音めいた衝撃を、奥歯を噛みしめてやり過ごしてから、ふっとスバルは目を細めて不敵に笑った。


「迷宮からの警告だな」


 不満げな顔をしたカストルは腕を組むと、これ見よがしにつまらなそうな顔をして吐き出す。


「警告ってか敵意ですよねこれ。おこなの? 『お前なんかギッタギタのボコボコにして見向きもされない廃墟にしてやるよ。何が聖女試験の聖地だよこの性悪』って罵ったわけでもないのに、おこなの? 壊すぞってシンプルに言っただけじゃん。心狭ッ」


 笑みを張り付かせたまま、スバルが呟く。


「ツッコミどころしかねぇわお前」

「なんかオレもむかついてきたんですけど、『やんのか』って胸倉掴もうにもつかみどころがないからさ、壁」


 言いながら、何の前触れもなく剣を抜いて柄で側壁を打ち付けた。

 ギィィィンと、強い衝撃が空気まで震わせる。


「……なんだろう。いま壁の中で何か動いたような気がしたんだけど」


 ぱらり、と細かな石片がこぼれ落ちた。

 (ひび)の入った壁は、カストルとスバルが見つめる中、ゆっくりとその罅を埋めるように盛り上がってきて、瞬きをしたときには何事もなかったように静まり返っていた。穿たれた痕も罅もどこにもない。


「治り早いじゃん。ちょっとくらいひどくしても大丈夫そうだね」


 そこに誰がいるわけでもないのに、カストルが微笑みながら話しかける。

 ドSめ、と毒づきつつ、スバルは右手の拳を軽く握りしめて目の高さに持ってきた。


「自己修復機能あり、か。生きているっぽいなこの迷宮。お願いをきいてくれるならそれに越したことないけど、さて……」


 言いながら一瞬目を伏せ、口の中で素早く呪文を唱える。

 次の瞬間には、真横に拳を突き出し、壁のすれすれで止めた。


「破壊する」


 厳然たる声で宣言し、握りしめた拳の甲で壁をとん、と叩く。

 音のない爆発が巻き起こり、壁に縦横無尽に亀裂が走り抜けた。

 次の瞬間、狙い定めていたかのように駆けこんだカストルが、罅割れの中心に体当たりを食らわせる。

 ばらばらと壁は崩れてぽっかりと穴が開いた。


 ひゅおっと冷風が吹き抜ける。


「へ~、どこにつながるのかな、これ」


 止める間もなく、カストルが穴に身を滑らせた。


「噛みつかれるぞ。迷宮に」


 スバルがその背に声をかけたが、気にした様子もなく足を踏み入れていく。

 壁の向こうには、思いがけず広い空間があるようだった。

 不意に、カストルのその細い背中が跳ねた。闇を蹴って、加速する。

 すわ魔物でも出たか、と身構えたスバルの耳に届いたのは、剣と剣がぶつかりあう、鋭い金属音。


「人がいるみたいだ」


 穴に乗り込もうとしていた姫君の前に手を伸ばして動きを抑制し、スバルは闇の奥を睨みつける。

 そのスバルの腕に、姫君は手をかけた。


「だめだ、行くしかない」


 ひえっというエルハの悲鳴が耳に届き、振り返って確認した瞬間、姫君がスバルの腕を掴んで引きずるように走り出した。


「迷宮が、修復を始めている。この空間が閉鎖される」


 打ち破らなかった方の壁が、空間を閉じるべく迫ってきていた。

 一拍反応の遅れたエルハの片足が壁にずるりと飲まれていた。


「うわああああ、助けっ」


 振り返った位置から、咄嗟に前に出ようとしたスバルにしがみついて姫君が引き留める。


「助ける義理はない」

「馬鹿なの?」


 振り払って、スバルは駆けだす。

 エルハの肩まで飲みこもうとしていた壁を押し返すように両手をついて、闇雲に魔力をのせた。


「足掻け!!」


 恐怖でまともな動きが出来ていないエルハを叱咤し、さらに全身を巡る魔力に意志をのせる。


(壁だけを。壁だけを砕く、か)


 飲まれてしまったエルハの身体を傷つけずに? 

 指が壁にめりこむ。もろともに飲まれてしまう、悩む暇などない。

 スバルは素早く息を吸い込み、気合とともに力を解き放つ。


「なめんなよっ。天才じゃねーからとか何度も言うなってんだ、傷つくんだよ馬鹿!!」


 景気づけに直近の苛立ちをぶつけたら、素直にカストルに対する罵倒になってしまったが、魔力に勢いがつけば特に問題はない。

 壁に亀裂が入り、迫って来る動きが目に見えて緩慢になる。

 最初に足を飲まれて恐慌をきたしていたエルハが、スバルの呼びかけや魔法の威力に我を取り戻して、罅割れから手足を振り回してせり出してくる。

 指が飲まれかけていたスバルは手を引き、そのままエルハの腕を掴んだ。


「いま助ける。はやく来い……っ」


 抜ける、と安堵にスバルが張りつめた表情をゆるめかけたその瞬間。

 駆け出したエルハが身体を反転してスバルに体当たりをした。


 肩が壁にのまれ、あっという間に半身埋まったスバルが振り返った先で。

 苦笑いを浮かべたエルハが軽い口調で言った。


「悪いな。あんたに恨みはないんだけど、後々のことを考えると」


 エルハの背後に立った姫君が、力の限りエルハを突き飛ばした。

 釣り上げた眼に苛立ちを滾らせて、轟くような声でスバルを叱咤する。


「馬鹿はお前だ、魔導士!」

「逃げろ、姫!!」


 顔まで壁が到達しつつも、叫び返したスバルの腕をひっつかんで、姫君がわめいた。


「いい加減にしろ!! 私の手を煩わせるな、それでよくも護衛任務についたな、能無しが!!」


(あ、この姫さんほんとに口悪い)


 スバルの脳裏を最後にかすったのはそんな言葉であり、せめてこのひとだけでも逃がさなければ、と自由な手で姫君の手を外そうと力を込めたのだが、姫の意志がそれを拒んだ。


(だめだっての。姫は)


 共倒れはやめろ、と。

 体のすべて壁にのまれながらスバルは口惜しさを込めて胸中で呟いた。

 姫君の指は腕に食い込んだまま、未練がましく力を込めてスバルを引きずり出そうとしていた。



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