1 銀兎
森の奥から、魔物の吠え声が響いていた。
野営の準備をしていた兵士たちの中には、ふと顔を上げて辺りを見回す者もいる。
「どこかが交戦中なんだろう」
「いやに近かったような……」
打ち消しきれなかった不安が兵士たちの間に伝播する中、迷宮の入り口の祠に立ち、書類に目を落としていたウォルフガングが顔を上げる。
木々の間から続く道に目を向けた。
何かがものすごい速さで走りこんでくる。
「おっ待たせしまっしたー!!」
少年の声が響き渡った。
童顔、というより、実際に稚い。
細身の身体全体から、躍動感が迸っている。
場違いなまでに、突き抜けた明るい笑顔。
その手には血糊の張り付いた剣が握られていた。
「待ってはいないぞ」
誰だ……? という微妙な空気の中、ウォルフガングが片目を眇めて言った。
少年は気にした様子もなく軽く首を回して、近場の木のふもとに駆ける。手を伸ばしてよく繁った葉の一枚を手にした。厚手の葉で素早く剣の血を拭きとって、鞘に納める。
無駄のない動作から流れるように、ウォルフガングを振り返った。
木漏れ日を浴びて、一房緑が混じった銀髪が輝きを放った。
「地下迷宮に入って時間潰してくるのが試験って聞いたんですけど。うちのお嬢さんはもう下りちゃったんですよね?」
裏表のなさそうな、人好きのする笑顔。
「どこから説明したものか……。とりあえず、待っていないし、君の課題は君のお嬢さんを守ることではない」
ウォルフガングが眉間に皺を寄せて、押し付けるように言い聞かせたが、少年は別段気にした様子もない。
「そこから下りればお嬢さんに追いつけるかな。あ、それって食糧ですか? 嬉しいなぁ~。貰っていきますね。いや~、昨日はここの食事が美味し過ぎてついつい食べ過ぎちゃったら、もう今朝は腹が痛いのなんのって。遅刻は嫌だってレグルスさんもお嬢さんもさっさと行っちゃうし。あ、でももう大丈夫ですからね! 完・全・復・活!!」
少年の馬鹿明るい声が、静まり返った中、絶大な存在感を持って響き渡った。
カタリナ家の……、今日は棄権とかいう……、マジで腹痛だったのか……、というひそやかな話し声が、遅れてさざ波のように広がる。
ウォルフガングは、手にしていた書類をぐしゃりと握りしめた。
「カタリナ家のカストルだな。すでに君のお嬢さんからは、君は棄権として受け付けている。今日のところは帰りなさい。ここに来てもやることはないぞ」
苦々しい口調で言ってから、ぼそりと付け足した。
「ここまで一人で来たんだよな……? なら、帰れるよな?」
一方のカストルは笑みを崩さずに答えた。
「お嬢さんは、僕が間に合わないと思っていたんでしょうね。せっかちだなぁ」
「いや、完全に遅刻だ。試験はすでに開始している。君の護衛対象はすでに迷宮深く進んでいるだろう」
「なるほど!! じゃあ、急いで合流します!!」
ウサギが跳ねるような軽やかさで、カストルはひといきにウォルフガングのそばまで距離を詰めた。
目で追えないわけではないが、まさにほんの瞬きほどの出来事だった。
「おい、だめだと言っているだろう」
咄嗟に声をかけたウォルフガングに、間近の位置から、カストルはにこりと微笑む。
「僕の参加は認めないという意味ですか?」
「遅刻だからな」
「なるほど。じゃあ、こうしましょう。遅れた分だけ長く迷宮で過ごしてきます」
「何が『こうしましょう』だ。いい加減にしろ」
相手にする気はないと、ウォルフガングは極めてそっけなく言って、握りつぶした書類に目を落とす。両手で摘まんで広げた。
カストルはウォルフガングに視線を固定したまま、笑み崩れていた瞳をわずかに細めた。
「僕の失格の条件は、組み替えられて配置された護衛対象をロストしたとき、ですよね?」
あるか無きかの風を頬に感じて、ウォルフガングは顔を上げた。
邪気のない、笑みを湛えた翠眼。
「候補者と護衛をミックスって面白いですね。レグルスさんはどこだろう」
組分けに関する書類を読まれた? この一瞬で? という事実に寒気を覚えながら、ウォルフガングは書類の裏が見えるように手を下ろす。
「いま迷宮の中では、どこのチームも思うように動けないでいるはずだ。自分の護衛でなくとも、さっさと意思疎通をはかって共通の利益の為に動ける候補者も、中にはいるかもしれないが」
思わせぶりに陰湿な笑みを浮かべてみせたというのに、カストルは「へえ~」と軽い口調で流した。顔には笑みを浮かべたまま。
「了解しました。いってきます!!」
「待て。それは何も了解していない」
手を伸ばして、少年の腕を掴もうとした。
すでに背を向けていて、後ろが見えているはずもないのに少年はするりとかわして地下へと続く階段に向かう。
「おい。勝手に入るな」
「許可なく入ったら死ぬ仕掛けでもあるんですか?」
数段下りた位置から、きょとんとした顔で振り返ってくる。
「そうではない。だが命の保証はない。君はすでに試験を放棄したとみなされているし、今から入っても」
カストルはのんびりとした調子でウォルフガングの小言を遮った。
「王子様。放棄はしていないです。いってきますね」
軽い足音を立てて、階段を下っていった。
「人の話を聞かない奴だな……」
魔物と謀略ひしめく迷宮に、単身乗り込む後ろ姿を半ば呆然と見送って、ウォルフガングは呟いた。
(とはいえ……、ここまでの道のりも一人で踏破してきたわけで)
しかも、書類を読まれた。
そう考えてから、ふとウォルフガングは顔を上げて周囲を見回す。
書類を読まれたのか。
それとも、これまでの経過をどこかから見られていたのか。
何の為に? というのは愚問だろう。
先に迷宮に潜れば人間に遭遇しにくいメリットはあるが、情報量が圧倒的に不足する。
その点、後続組は他チームの組み合わせを得やすいし、迷宮の入り口に関する事情すら把握できるかもしれない。
(まさか……情報を得る為にわざと残していたのか……?)
棄権のまま参加できなくなる恐れも十分あるというのに?
「さすがカタリナ家は一筋縄ではいかない……か」
そう思う一方で、あのどうにも幼い少年の軽薄な姿を思い出すと確信を持てずにいる。
(本当に腹痛の線もあり得そうだからな。考えすぎたらどつぼにはまるぞ)
うーん……、と思わず呻き声を上げながらウォルフガングは空を仰いでから、迷宮の入り口に目を向けた。
「野垂れ死ぬなよ。思った以上にこの迷宮の魔物は手強いからな」
単身で乗り込んでいった、すでに見えない背中に小声で語りかける。
そして何事もなかったように兵士たちの方へと足を向けた。




