落ちる(後編)
足が空を踏みしめた。
ぞっとする浮遊感。
(こわい落ちるどうしよう)
引き延ばされた一瞬、どくんと一度大きく跳ねて心臓が止まった感覚があった。
咄嗟に反応したレグルスが腕を掴んでくれたけれど、絶対に無理――
後悔や申し訳なさみたいなものがどっと押し寄せてくるが、落下は止められず。
叫ぶ声も出なかったアキラであったが。
ぐいっと腕が強くひかれた。
骨が軋むほどの力に、息を止められた。
とても短く、不思議な呪文が切羽詰まった声で低く叫ばれる。
骨ばった手が後頭部をきつくおさえこんでいて、もう片方の手は背中から腰にしっかりと回されていた。
抱きしめられている。
気づいても、身じろぎすらできない。
「手間をかけさせるな。アホウ」
接近しすぎたゼロ距離から、苦々しく毒づかれた。
「ごめん……なさい」
口の中が瞬時に干上がってしまったようで、うまくしゃべれない。
ただ、レグルスの両腕がふさがっているのはまずいのではと、なんとか強張った腕を伸ばしてしがみつくように背にまわした。
「ん」
軽く声をもらしつつ、レグルスが後頭部をおさえていた手を離した。
アキラは軽く首を振ってレグルスの肩越しにその背後を確認する。
(魔法)
降下のスピードがゆるやかで、まるで二人で抱き合ったまま飛んでいるかのようだった。
落ちた勢いのまま、下に激突することはないと知ってアキラは首をひねって眼下の光景を視界に収める。
「地下迷宮は飾りのようなものだったらしいな。この広大な空間が迷宮の本体のようだ」
石造りの祠から階段によって下りて来た地下迷宮第一層は、どこか人の手による建造物を思わせたが。
いまゆっくりと下りていくその空間は大きな鍾乳洞のようで、岩肌剥き出しの洞窟だった。
暗くはない。何か光を放つものがふわふわとたくさん空間を漂っていて、遠くははっきり見えないもののの、地面までずいぶん距離があるのはわかった。
「すごい。地下とは思えないですね。光……? なんか飛んでいる。あれがあるせいなのかな、緑もあるし、水が流れるような音もする……」
耳を澄ませたそのとき、はるかな水音にまざって獣の呻きも聞こえたような気がして、アキラはレグルスに抱き着く腕にぎゅっと力をこめる。
はっと我に返って身体を引きはがそうとしたが、レグルスからも答えるように腕に力がこめられた。
「下に着くぞ。落下地点はできるだけずらしたつもりだが、魔物に狙われているかもしれない。そのまましがみついていろ」
「はい」
レグルスが警戒して、辺りを見回している。
(このひと強いけど……、心配はいらないって、わかっているつもりだけど。戦闘につぐ戦闘なんて心臓に悪い)
ドキドキと痛いくらい心臓が鳴り始めて、アキラはつい目の前にあったレグルスの胸に顔をうずめるようにすがりついてしまった。
すぐにまずいと気付いて離れようとしたが、「あまり動くな」と囁かれてそのまま動きを止める。
「大丈夫そうだ。近くには何もいない」
足が地面につく。
(立っている)
あるべき床が無くてぞわっと全身を抜けた感覚がまだ生々しく残っていて、アキラは足の裏が完全に地面についても固まっていた。
「……手を離しても大丈夫か?」
ややして、落ち着き払った声に問われて、自分がレグルスにしがみついていることを思い出す。
「大丈夫です」
どちらからともなく互いの背にまわしていた腕をといて、離れた。
「この天然の迷宮を隠すための第一層か……。さて、とりあえずこの広いホールにいつまでもいられない。魔物が現れたら隠れる場所がないし、他の人間が落ちてきた場合は顔を合わせてしまう。まだ時間はたくさんあるのだし、脇道に入ってより深部に向かおう」
「わかりました」
たしかに、レグルス一人でアキラを守り抜かねばならぬ事情がある以上、四方八方から敵が襲ってくる状況は非常に不利だ。
狭い道ならば、挟み撃ちに合わない限りは戦いようがあるということだろう。
ここまでの戦い方を見ていたアキラは、異論をはさむことなく同意した。
「上から見たときに、あちらの方に横道があった。まずはあそこまで行くぞ」
てきぱきと言いながら歩き出したレグルスに、アキラも続く。
あまりにも強い力で抱きしめられたせいで、身体の節々が痛いような気がしたが、そんな泣き言など言えるはずもない。歩いているうちに消えてくれるのを願う。
ふと思い出したようにレグルスが肩越しに振り返った。
視線が、アキラの顔に向けられ、そのまま首から下へと滑り落ちていく。
「な……んですか?」
「いや。女性で通じるだろうにと」
「……何言って……!?」
色めきたったアキラに対し、煩わしそうに手を小さく振って、レグルスは言い訳がましく言った。
「深い意味はない。少女のようななりをしているとは思っていたが、身体も華奢だ。わざわざ男だといって物議を醸すより、女装して黙っていれば良かったのに、と」
「あ……それは」
いきなり核心を突かれて、アキラは視線をさまよわせた。
(華奢って。それ「抱き心地」の話をしてます……!?)
この事態を招いたのは自分だし、レグルスは他意なく助けてくれたのも知っている。よーくわかっている。
それでも、あの緊急時にそこまでの感想を抱かれていたのがなんとも気まずい。
アキラ自身、服装や髪の短さで演出しているだけで、別段変装をしているわけではないので、もとより疑われていたのかもしれないが。
「君は、また。無礼だと怒るか、流せばいいのに。いちいちそんなに困られても。俺はそこまで重い話をしたつもりはない」
そう言うレグルス自身が眉をひそめて、はっきりと困った顔をしている。
「ですよね。わかっているんですけど」
ここは笑ってごまかすところだ。
なんでもなかったふりをしないと。
(まだこのひとと過ごす時間はたくさんあるんだ。これは軽い雑談なんだから、真に受けちゃだめだ)
この世界で目覚めたときだって、うまく歩けなくてアランに抱き上げられたりした。その時にだって、アランに「男の人」を感じたりはしていない。距離が近めのスバルにだって。そんなこと考える余地もなくここまできた。
そもそも、女であることは隠し通さなければいけないのだ。
「少しびっくりしたんです。あなたからそんな風に、話をふってもらえると思ってなくて」
これは本心。
何かとピリピリしていたレグルスから話しかけられたことにも驚いたのだ。
その線で、内容には触れないでいこうと決意を胸に言えば、レグルスは軽く頷いた。
「それもそうか。たしかにこれまでは口を開けば非友好的な話ばかり」
「それはあなたにも責任がありますよね?」
つい、言い返していまう。
レグルスは口の端を持ち上げて皮肉っぽく笑った。
「その口の減らない感じ。つい俺も言い過ぎる。失敗した。もう少し困らせておけば良かった」
「生意気だって言いたいみたいですけど、わたしはこういう感じなのであって」
無言のまま、レグルスが手を伸ばしてきて、アキラの頬にかかっていた髪を指の先でかするめるようにして払った。
「悪いとは言っていない。あのまま困り顔をしていたら、もっといじめるところだった」
「ええ……っ」
「あんまりいじめがいのある顔をするなよ」
(ドSだ……)
絶句したアキラの視線の先でレグルスはくすり、と邪気のない笑い声をもらしてからゆっくりと踵を返す。
「行くぞ」
ついてくるのを確信して先を行く背中をアキラは力いっぱい睨みつけ――
他に選択肢がないからと、不承不承その後を追うのだった。




