起きるまで(前編)
ぺたん、ぺたん。
リノリウムの床と、古びたビニールスリッパの相性はいまいちだ。
脱げないように気を付けながら歩くと、足首に負担がかかる。
ぺたん、ぺたん。
「あれ、木崎それどうしたの? 靴持ち帰って、忘れて来たの?」
「え、あ、うん。そうなのかな……?」
「何それ。覚えてないの?」
ばったり顔を合わせた他クラスの友人に、来賓用スリッパを履いていることを指摘されて、アキラはぼんやりと笑ってみせた。
「どこに置いてきたか、全然覚えてなくて」
「玄関で履き替えたら靴箱に入れて帰るんじゃないの? どこかに持って行ったの?」
「そうみたい」
少しだけ不思議そうに首を傾げた友人と、笑って別れる。変な会話だなとは思われたかもしれないが、あまりにも短く何気ない場面すぎて、教室に着く頃には忘れているだろう。
なんでもないふりをしたアキラ自身、「どこに置き忘れてきたんだっけ」と思うことで、今現在自分の身には何も起きていないと思い込めそうな気がした。
ぺたん、ぺたん。
靴がないと気付いて、生徒用玄関から職員・来客用玄関にまわってスリッパを借りてきたので、教室までの道のりがいつもより少しだけ長い。
足首が疲れた。
ようやくたどりついて、ほっと後ろの引き戸に手をかけたとき、背後から声をかけられた。
「おはよう、木崎さん。靴、どうかしたの?」
鈴の鳴るような、可憐な声だった。
* * *
薄く目を開けて、アキラはぼんやりと上を向いていた。
(ここ、どこだろう)
自分が置かれた状況が把握できない。
そろそろ起きようかなと、身体の横に手をつくと、指がぐしゃっと何かを掴む。
恐る恐る持ち上げてみると、褪せた水色とピンクと白の花びらが形を失って指の間から崩れ落ちていった。
目に差し込んでくる光は鈍い。
見上げると、ごく近い位置に分厚いガラスの天井がある。
左右に首を動かしてみると、シャラシャラと微かな音を立てて積み重なっていた花びらが崩れた。ドライフラワーの乾燥が極限まで進んでしまい、少しの刺激にも耐えきれなかった、という儚さであった。
おそらく、身体のサイズに合わせて作られたガラスの蓋つきケースに横になっている。
周りを取り巻く花。
(わたし死んだと思われている?)
何かの拍子に心臓が止まって、埋葬寸前なのだろうか。しかし、ガラスの棺桶は火葬には向かないだろうし、花の劣化が昨日今日というレベルではないように見えるのだが。
「……うー」
声を出してみた。ほとんど呻き声だった。
どうしよう。
ぐずぐすしている間に、焼かれたり埋められたりしたら大変。
(まずは、生きていることを誰かに伝えないと)
手をガラス面にあて、ぐっと持ち上げようとしてみる。重いし、腕の感覚も妙に頼りない。
(誰か――――)
気づいて。
手にかかる重みが不意に消えた。
息詰まるほどに視界をふさいでいたガラスがきれいに取り払われる。
眩しさを増した光。
視界に飛び込んできたのは、真っ赤な髪の青年。瞳は涼し気な水色。鼻梁の通った端正な容貌。大きく目を見開き、見つめてきている。
視線がぶつかっていた。
何か話すべき。
なんとか口を開いた。喉を空気が通り抜けて、音にはならなかった。
先に声を発したのは青年だった。
「本当に、男の子だ」
(……男? わたしを見て言っている?)
とりあえず起き上がろうとするものの、全身に力が入らない。身体の脇に手をついても、うまく支えられない。
その様子をじっと見ていたらしい青年が、耳に心地よい低音で尋ねてきた。
「動けますか。身体、辛そうですね」
力のない掌を今一度、枯れた花の上について起き上がろうと試みる。
ずるり、と視界がずれて無様に倒れこみそうになる。
衝撃を覚悟した瞬間、青年に手首を掴まれて背が浮いた。すぐに、腕が差し込まれて、腿の下から手がひざ裏にもまわされて、一気に抱き上げられる。
遠慮のない仕草だった。それでいて手荒な印象がなかったのは、その腕があまりに力強く、温かだったせいかもしれない。
目を向けると、「おや」というように青年が小首を傾げたところだった。
(どういう反応?)
片眉をぎゅっと寄せて見上げると、青年は「ええと」と声を漏らしてから困ったように唇を引き結ぶ。
わずかの逡巡の後に、言った。
「あなたは男性……で、いいのかな? 記録上はそうなっていますし、見た瞬間はそうだと思ったんですけど。こうしてみると、あまりに軽く、柔らかく、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな脆さを感じて……、わからないな」
「わたし……」
ようやく喉から出て来た声は、自分で想定していたよりはやや低く、掠れた声だった。
(男ではなく)
名前は木崎アキラ。性別は女です。年齢は十六歳。誕生日はまだの高校二年生で……
記憶は、まるで起きる直前に見ていた夢のようにどんどん遠くなっていく。
「おっと、うちの候補者もついにお目覚めか。ギリギリだな。急げば試験の開始に間に合うだろう。気分はどうだ?」
誰かの声が近づいて来る。
顔を向けると、灰色っぽい髪の男の人が歩いて来たところだった。
目が合う。
硬質に澄んだ、アイスブルーの瞳。
「気分」
口の中で呟いた瞬間に、ずきりと頭痛がした。
「百年寝ていたんだ、起きている感覚を思い出すまでが大変だろうな。身体も満足に動かせないんじゃないか。食事や排泄が不要になっていた魔法の効力はそのうち切れる。日常生活に戻して色々慣らして、と言いたいところだが、時間がない。ひとまず王都の試験会場まで直行しよう」
百年、寝ていた?
魔法の効力?
なんの話をしているんだろう
「ご自分の名前は思い出せますか?」
「わたしの、名前。木崎アキラ……男では」
なんとか言ったところで、激しい頭痛に襲われて息を止める。
ほとんど反射であろう、青年が腕に力を込めてきた。
「無理をさせたみたいですね、申し訳ありません。詳しい話はあとで聞きましょう。私の名前はアランです」
「オレはスバルだ」
ひょいっと、灰色髪の青年に顔をのぞきこまれる。
「アラン……、スバル」
名を口にしたところで、耐えがたいほどに膨れ上がった頭痛に内側から殴られる感覚。
意識はそこで途絶えた。
この世界の、最初の記憶。




