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 なかなか、連絡がつかなかった。

 アーニランは、ほぼ四ヵ月ぶりに市野沢家を訪れた。あの日に、自宅へ戻ってきた愛犬を連れて。大陸性の乾いた皐月風の薫りを感じながら、少しふっくらとしたアーニランとプロキオンは、市野沢家への坂道をゆっくりと登っていった。たしかに、このあたりでは五月に桜が満開だった。梅や桃、そして林檎の花までもが同時に咲いているこの里の春の風景は、アーニランにとって新鮮な驚きだった。

 この日のアーニランは、喜んでもらえるはずの良い知らせを山桜色のリボンで結び、紫色の小袋に包んで携えていた。

 あの南部曲家に到着したとき、アーニランは異変を感じ取った。よく手入れされていたイチイの生け垣が取り払われ、花壇が荒らされている。馬房があったはずの空間が潰されて、滴石号の姿が見えない。さらに、製材所だった場所は更地になっており、建設用重機があたりを掘り返している。一抹の不安がよぎった次の瞬間、アーニランを愕然とさせる情報が、彼女の目に飛び込んだ。


『三浦』


何度も目を凝らしてみたが、表札には「市野沢」とは書かれていなかった。あわてて呼び鈴を押すと、どこかで見覚えのある、だらしのない若い男が面倒くさそうに出てきた。その男は、アーニランを見た瞬間、表情を変えた。

「こちらは、市野沢さんのお宅ですよね。」

「市野沢さんは、引っ越されました。」

「エッ!いつですか?」

「春先でしたかね。不幸続きだったんですよ。製材所のほうの景気が悪くなってから、息子さんが亡くなられて。」

「亡くなった?」

「実は、僕と息子さんは幼なじみでね。多少は付き合いもあったんですけど、彼があんな事件を起こしてからは、色々大変みたいだったようですよ。このあたりは、まだまだ田舎ですから。」

「亡くなったって、本当ですか?」

「奥様が体を壊されて、しばらくしてからですかね。入院先に遺書を残して、行方がわからないようですよ。ある事ないこと言われてましたからね。相談してもらえれば、お役にたてたこともあったと思うんですけど…。航介君は、自殺するようなタイプじゃなかったけどなぁ。」

航介が自殺したということを聞いて、アーニランはその場に崩れ落ちた。三浦は「元気を出して」と、アーニランの肩を二度ほどたたいて励ましたフリをしたあと、静かに戸を閉めた。

 行き場を失ったアーニランは、最後の想い出の地である斗賀の丘に立っていた。あの日は吹雪いていたが、皮肉な事に、今日はよく晴れている。東の地平線上には、「地図から消えた」旧杉沢村がよく見えた。航介が天の川だと気づかせてくれた馬淵川が、ようやく始まった田植えのために必要な雪解け水を流域に恵んでいる。その豊富な水量は尽きることなく、広く糠部地方の大半を潤していて、貴き山の神が信仰の対価として与えているようだった。その恵みをもっとも受けているクリスマスの想い出の場所からは、淡い文曲星の光が放たれ、楽しかった記憶の復元を促している。

 お腹に手をあてたアーニランは、航介とフェリーで出会ってから鶴岡駅で引き裂かれるまでの半年を振り返り、涙が止まらなくなった。七戸町長宅での再会に感じた赤い糸。学校では教わらない慣習から学んだ知恵の数々。そして、地名という先達からの財産を受け継ぎ、そこから地上の星を発見していく共同作業は、世界中で二人だけが共有する秘密だった。自分が生まれた国や故郷、そして自分自身に誇りをもって古きものを大切にする航介の姿からは、孤独を怖れずに堂々と生き抜くことの大切さを教わった。少し軽薄そうに見えた航介に飛び込んでみた勇気は、アーニランにとって間違いではなかった。

「いっちーは、自殺なんかしない!」

アーニランの前では、決して弱さをみせることなどしなかった航介は、すでに彼女の心のなかで美化されていた。幼くして父親を失ったアーニランにとって、航介の存在は、いつのまにか父性そのものになっていたのである。

 アーニランは、生まれてはじめて、暴力性が沸き上がってくる感情を覚えた。これまで経験したことのないこの特殊な感覚は、閉じ込めていた複雑なる無意識が表層化したからにほかならなかった。教育や躾の名のもとに、生来の本能を否定されてきた温室育ちのアーニランは、十五歳にもなるまで、常識や良識という権力者の意思によって、ひそかに支配されてきたのだ。その巨大な見えざる力によって囚われたあの力強い航介が、本当に自殺などするだろうか。いや、むしろ、どこかに隠されてしまったにちがいないのだ。

 アーニランは、航介という頼るべき存在を自分の手からまたも奪い取った誰かに、この暴力的な感情を強くそのままにぶつけたいという衝動にかられていた。いつか航介は、そのネガティブな感情は七十五日で消え去ると教えてくれた。また、神社の祭りという昇華した場で発散するべきだと言った。

 しかし、航介という二人目の父親は、自分にとってだけではなく、この秋に生まれてくるはずの新たな生命にとっても必要にちがいなかった。

 明日は、「菖蒲の日」だった。


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