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航介は、アーニランと同じく、イヌを捜していた。
諜報のサル、行動のキジを獲得した航介は、最後に忠臣のイヌが欲しかった。しかし、わずか二十歳で無一文の航介に、忠実な存在などいるわけがない。
航介は逆転の発想で、自分が誰かに忠実でいることを考えてみた。新羅善神堂(大津市)で元服したために新羅三郎と呼ばれた義家の弟である源義光が、藤原顕季に申し出た名簿奉呈の関係は、劉備玄徳が諸葛孔明を三顧の礼で迎える関係と、実は合同である。
いまの航介には、思い当たる年長者は一人しかいなかった。国土交通省の治水担当技官、工藤治三郎である。工藤の感性は、どことなく自分に似ている気がしていたのだ。航介は、巡回車に書かれてあったはずの役所に電話をして会う約束をした。
「私も、君と考えてみたいことがあったんだ。」
工藤は、例の事件のことには触れずに、故郷の地理と歴史について、一緒に考えたいと言う。
午前六時。北緯四十度三十分では、たとえ立春を過ぎようと春とは名ばかりだ。早めに約束した苫米地駅に着いた航介は、寒風が吹きぬける粗末な待合室で身を固くしながら、缶コーヒーをすすっていた。しばらくすると、パトランプがついた巡回車に乗った工藤が現れた。手招きをしている。
「おはようさん。乗りなさい。」
言われるように公用車の助手席に乗り込む。
「この苫米地集落はもともと氾濫原だ。馬淵川は、現在の河道より北側にもその流路があったと思われる。これから、その北端まで行ってみよう。」
工藤は巡回車を数分走らせ、周囲を見渡せる丘に車を停めた。広がる休耕田と外灯も見当たらないこの里の寒々とした景色に、航介は人知の工夫の足りなさを感じた。
「最近、ナスカの地上絵について書かれたある論文を読んで思ったんだ。私も、地上絵を描きたいとね。」
工藤は、ペルーの大地に遺されたあの地上絵と似た景色を、目の前の大地に描きたいと言う。しかし、地上絵を描くとは、どういうことだろう。
「ナスカに描かれてある鳥や獣は、すべて水にちなんでいる。あの大地には水気がないことから、ナスカ人が解釈した星座絵として、それらを天の川周辺の星々に見立てたものではないだろうか。」
工藤は、水に飢えるナスカ人は、水を飲みにくる鳥獣を大地に描き、それらに神性をもたせて敬うことで、彼らが雨乞いをしていたのではないかと推測している。たしかに、夜空を舞う水鳥が、天の川の清らかな水と戯れるという物語にはロマンがある。
「私は、馬淵川を天の川としたい。この川の流域に地上絵を描いてみようと思う。」
航介は、工藤が馬淵川を天の川と同一視した時、アーニランと共有する著作物が、悪意のある誰かによって流出したのだと思った。しかし、それが誤解であることがわかってくる。
「ナスカ人は、水が欲しくて地上絵を描いて祀った。一方、私がこの里で地上絵を描こうと思ったのは、あまりにも水が多いからだ。」
「このあたりは、いまだに自然堤防ですからね。ナスカ人の感性とは全く逆になりますよね。」
「いや、私の感性はナスカ人と同じだと思っている。どちらも水を支配したいのだ。」
工藤はルームランプを点け、職場から用意してきたと思われるこのあたりの地形図を開く。その地図には、斜めに折り目がついている。
「この折り目は、ここ苫米地集落と対岸の福田集落を結んでいる。私は、ある二ヶ所のポイントに着目して折り目を付けた。わかるかな?」
航介には、よくわからなかった。
「実は、櫛引八幡宮と斗賀神社だ。この二つを重ねあわせるための折り目を、北西から南東へつけたとき、苫米地と福田が馬淵川を挟んで結ばれる。」
「橋が架かるんですね。」
「それだけではないんだ。あの二つの山を結んだ中点を、ちょうどこの折り目が通るんだ。櫛引八幡宮と斗賀神社を地図上で量ね合わせただけなのに。」
工藤は自信ありげに、川向こうに見える名久井岳(六一五米)と、うっすらと遠くに見えてきた階上岳(七四〇米)を指し、地図上でその二つの山を直線で結んで、折り目との交点をマークした。
「この交点を、古くから『市野沢』と呼ぶ。比較的大きな集落だ。そう、君の名字と一緒だ。」
工藤は楽しそうに、一枚の地形図から彼なりに見えてくる景色を航介に語った。
「この代表的な二つの山を、黒山と赤山という形で対照的なものとして見立ててみる。」
「黒山と赤山?」
航介は、黒と白のコントラストは理解できたが、黒と赤のそれには、ピンとこなかった。
「『くろ』という読みは『暮れ』に通じる。『あか』という読みは『明け』に通じる。夕暮れは暗く、夜明けは明るい。日本語は美しくできている。」
航介は工藤に言われて、八幡馬という民芸品がその二色だったことを思い出した。
「とすると、名久井岳と階上岳のうち、どちらかが黒で、どちらかが赤だということですね。」
「名久井岳が黒山のはずだ。」
「名久井岳は階上岳よりも西にあるから『暮れ』、すなわち黒ということですね。」
「そのとおり。」
「名久井岳にある法光寺の山号は、『白華山』といったはずです。階上岳は『白山』じゃないんですか?」
航介は、「花」という漢字に込められているインテリジェンスを、工藤にも説明しはじめた。
「花には、『化ける』意味が隠されているはずです。」
「鎌倉時代の創建といわれる白華山法光寺が、君の言うとおり、階上岳が『化け』たものだとすると、階上岳に『化ける』前の寺があるということだね?」
「心当たりは、あります。」
似たものどうしの二人は、狭いパトロール車のなかで推論の応酬を繰り返している。車内の熱気と外との気温差がフロントガラスを早々と曇らせ、ようやく昇ってきた南東よりの弱めの朝日が、この日も航介の左耳のピアスに反射している。
「海潮山応物寺です。」
「応物寺?聞いたことないなあ。」
「階上の人にはメジャーです。檀家をたくさんもっている葬式寺ですから。」
航介は、ローカル紙の「お悔やみ」欄でよく見かける変わった寺の名を記憶していた。
「実は、この応物寺は、昭和になってから復興した里人にとって特別な寺なのです。」
「どういうことなんだい?」
「人家が多くなった階上小学校の近くに造った新しい寺の名前に、この寺の名を冠したというわけです。もともとは寺下観音のことです。」
「おお、寺下観音か!」
寺下観音と言われれば、地元の人間ならわかる。
「寺下観音と呼ばれていた応物寺は、藩政期には檀家を持たない祈祷寺でした。しかし、明治になるとこの寺にも試練が訪れました。」
「廃仏毀釈か…」
「結局、海潮山応物寺は、潮山神社と改名することになりました。現在の寺下観音は、その別当寺が引き継いだものです。神社の境内に観音堂があります。」
「随分、ややこしいな。」
「それだけ、明治政府の宗教政策はファシズムのうえでおこなわれたということです。」
航介は、あらためて批判した。
「工藤さん、応物寺の山号を書いてみてください。」
工藤は、航介に言われるように書いた。達筆である。
「『さんずい』を取ると…」
「『毎朝』じゃないか!」
「明治の知恵者が、ファシストの目を盗んで『潮山』神社と、『朝の山』をわざわざ遺させたことからも示唆に富んでいるでしょう。それだけじゃないですよ。この寺の名前は、さらに興味深いものです。」
航介は、「應物寺」と書こうとしたが、「應」の字を思い出せなかった。
「慶應大学の『オウ』の漢字ってどんなんでしたっけ。難しいやつです。」
工藤は、丁寧に「應」の字を書き、
「この漢字は、もともと『ぴったり当てはまる』という意味らしい。覚え方として、『人間と尾の短いトリが心を合わせる』と覚えるんだよ。福沢先生からそう教わった…わけじゃないが。」
「工藤さんは、慶應ボーイなんですか?」
「ボーイってか!慶應オヤジだよ。」
工藤の返しは、年齢相応だった。航介が寒さを覚えたのは、今朝の放射冷却のせいではなかった。
航介は、工藤から五万分の一の地形図と製図用のコンパスを借り、再度、櫛引八幡宮と斗賀神社を重ねあわせた。コンパスの支点となる針先を利用してその二ヶ所に穴を通し開けると、たしかにその折り目が浮かび上がる。その折り目の方位角は、真北を〇度とすると三三〇度程度になることが、航介の羅経盤からわかった。この「見えざる橋」は、北北西から南南東へ架かるということである。地形図に載っていないこの地図情報は、工藤の大発見である。
「工藤さん、マジですごいじゃないですか。」
「任意の二点を重ねあわせることで浮かび上がった架け橋は、それらの中点の集合、すなわち中線だ。逆に言えば、その中線上の一点から二つの神社への距離は、もちろんどこにあっても等しい。」
航介は、その折り目をゆっくりとなぞってみた。人差し指が馬淵川を渡ったとき、あの特別な地名の中心地に記入されたある地図記号に目が留まった。
航介が、その地図記号にコンパスの針を刺し込み、鉛筆の芯を櫛引八幡宮の地図記号に合わせて円を描くと、半径五キロ・メートルほどの神聖な領域が現れた。櫛引八幡宮と斗賀神社間の中線上を支点としているので、当然のことながら、その円は斗賀神社も通過している。
航介は、加工したその地形図を工藤に返して、中心点とした場所へ急行するように言った。
「埖渡にある天満天神宮へ行ってください。」
目的地までの十分間の雑談で、航介は、工藤に対して、自分のこれまでの囚われ様とそれに対する復讐の計画を話した。ガサ入れによって、航介とアーニランの著作物が流出し、第三者の手柄になった事実に同情を求めた。しかし、工藤は、褒めもせず貶しもせずにただ黙って聴いていた。
「別に、テロを起こそうとしてるわけではないッスよ。」
航介は誤解を怖れて、くだけた言い方をした。それでも工藤は表情を変えない。
急激に、二人の仲が冷え込んだ。
航介は、工藤という男はこういった生臭い話題と試練を避けようとするヒラの公務員なのだと判断した。権力に去勢され、飼い殺されてしまった定年間近のしがないオッサンなんだと割り切った。こんなつまらない男に臣下の礼を申し出ることなど、より短気になってしまった現在の航介にはありえない。正義や漢気という熱い魂を共有できない者など、「郷土會」の構成員にはふさわしくない。
航介はコンビニの前で車を停めさせ、「タバコを買ってきます」と言ってそのまま反対方向へ歩いていった。その一方で、工藤は航介を降ろした瞬間、すぐにアクセルを踏んでその場を立ち去った。
ひとりでくぐろうとする天満天神宮の鳥居の前で、航介は苦笑いをする。
「また、菅原道真か…」
ここも斗賀神社とおなじように、明治政府のせいで変質したお宮であろうことは容易に推測できたが、怪しいと思っていた埖渡にあるこの鎮守の森には、なぜか道真が祀られていた。
航介は、北野天満宮の縁日で買った羅経盤を手にし、方位角三三〇度、すなわち亥の方角を確かめた。そして、そのまま振り返って巳の方角を仰いだ。心眼を働かせると、たしかに虹色の橋が航介の真上を通り、川向こうから架かっている。酉の方角には斗賀神社、丑の方角には櫛引八幡宮。どちらも、この埖渡からは等距離に位置している。
「まさに、レインボー・チェイサーだな…」
航介は羅経盤を参道の中央に置き、干支によって明示された方角を確認しながら、ぬかるんだ土の部分に二等辺三角形を描いた。斗賀神社からこの天満天神宮を経由して櫛引八幡宮に至る内角は、ちょうど一二〇度である。
「最大内角が、一二〇度の二等辺三角形…」
航介は、この特別な場所で、幾何学の問題を解きはじめた。まず埖渡を通る子午線を補助線として、直角三角形をひとつだけ描き出した。
「櫛引八幡宮と斗賀神社を重ねることは、階上岳と名久井岳を重ねることと相似なのだから…」
航介は、誰もいない天神宮で、孤独に推理している。この参道の上座から、道真が試験官として睨みを利かせているような気がした。
「オレが演出家なら、どうするだろうか…」
航介は、アーニランと工藤を失って、越えるべき崖が予想よりも険しいことに気づきはじめていた。