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「オンコ!」
小学生時代のあだ名で誰かが呼ぶ。病室には似つかわしくない赤のジャージ姿と女性用のつっかけといういでたちで、いかめしい男が笑顔で近寄ってくる。眉間の切り傷とガニ股の歩き姿で、航介はその遠い記憶をよみがえらせた。幼なじみの浜田である。
「おう、どやしたっきゃ。」
浜田は、欠損させた小指を隠すわけでもなく、
「おばちゃん、元気になってください。ガキの頃、おばちゃんとオンコには本当によくしてもらった。」
と言って、五、六個の小さな林檎が入ったビニール袋を航介に手渡した。
両親が離婚し、年老いた祖母に育てられていた浜田は、小学生の頃によくいじめられていた。航介とは帰り道が同じだということもあって、クラブ活動が忙しくなる高学年になるまでは、よく遊んだものだった。みなし児、在日といじめられる浜田に、航介はできるだけ盾になってやった。航介の母親も、そんな浜田の境遇を知って多めにおやつを与え、またある時は夕食を共にして、母親としての愛情と慈しみを分け与えていた。
「オンコのことで世の中が騒がしくなって、気にはしていたんだけどもな。」
浜田は、窓際の花瓶の水を取り替え始めた。
「オンコは、あっだらことはしねぇ。」
初めて、殺人犯や左翼のレッテルを貼られた航介をかばう男が現れた。
しかし、航介はこの男を信用していなかった。疎遠になってから十年にもなる。この十年は、人格形成においてもっとも重要な十年である。あの頃のように、もう無邪気には付き合えない。風のうわさどおり、浜田はその筋を歩んできたようだ。
「でっかくなったな。」
航介は、当たり障りのない話題ですかした。航介よりも細くて小さかった浜田が、今ではプロレスラーのような体形になっている。航介は、見ないようにしていた浜田の指に光るものが見えて、
「ヒロシ、結婚してんのか?」
「来月には二人目が産まれるんだじゃ。」
浜田は、携帯電話の待ち受け画面を航介に見せ、幸せそうに写るスリーショットをひけらかした。
「オンコはヤッてらが?」
と言うので、唯一、警察から返ってきた携帯電話を取り出し、航介も意地になってアーニランとのツーショットを見せてやった。ヤルだのヤラないだの、十年前ではありえない話題に盛り上がった二十歳の二人は、やがてその距離感を取り戻していった。
しばらく盛り上がっていた会話のなかで、航介は浜田の一言に気を留めた。
「八戸で中学生が殺された事件な。あれには、コッチが関わっているんだっていうんだな。そのあたりのこともあって、オンコは無実だとずっと思ってた。」
浜田は、自分の頬を指で一筋なぞり、ヤクザ者による犯罪であることを何気に話した。今でも、その筋の人間と付き合いがあるのだろうか。
「あそこの家は、オヤジが大工で出稼ぎ、おふくろさんが家政婦で共働きらしいんだな。そんななかで、殺された娘の兄貴が、とても優秀らしいんだ。」
「ほう。」
「その兄貴っていうのが、ちょうど生徒会の会長選挙に立候補してらったんだ。」
浜田はそう言って、地元の進学校の生徒会長選挙で、殺された彼女の兄を当選させるために仕組まれた謀殺だという噂を、航介に伝えた。
「たかが生徒会長のために?」
「されどっていうことだな。彼を将来的に政治家にしたいという奴らに人気があるんだ。育った環境が似てたりするんだろな。貧乏だけど硬派で頑張り屋。けれども自惚れず、仲間が多い。」
「選挙結果は?」
「圧勝だったらしい。そりゃ、兄貴としたら複雑だろうよ。頼んでもいないところで進んだ話なんだから。」
浜田により初めてもたらされた情報は、その事件のスケープゴートになりかけた航介にとって、真相を知りたいという欲を刺激した。
「ヒロシ、もう少し突っ込んで調べてもらえないか。」
航介は、元暴力団組員らしい浜田を、もっとも殺気盛んなキジと命名した。