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酒田駅に到着したとき、日付は変わっていた。
日本海4号に乗り込んだ山形県警の捜査員が、車掌とともに、若いカップルに職務質問をした。
「市野沢だな。未成年者略取誘拐容疑で逮捕する。君が藤原さんか。もう安心しなさい。」
うろたえる航介とアーニランは、次駅である鶴岡駅で降ろされ、鶴岡署に連行された。
航介は、その容疑を真っ向から否定したが、捜査員は「捜索届が出ている」の一点張りでどうしようもなかった。たしかに、七戸町長宅を抜け駆けしたことに対する多少の罪の意識はあったが、こうまで犯罪者扱いされるおぼえはない。アーニラン本人の証言をあてにして、身の潔白を晴らそうとするが、「成人が中学生をたぶらかすとは!」という一般論ですぐに黙らされてしまう。法的に身をまもる術を知らなかったことで、航介は寒々とした留置場での勾留を強いられた。真白い月山から赤川を伝って送り込まれる一月の冷気が、久々に堪えた。
アーニランは、彼女なりに精一杯の弁明を続けたが、中学生の話に取合う大人は誰もいなかった。当日、母親が鶴岡までやってきて金沢へ帰っていった。
航介は、七戸署ではなく八戸署へ護送されることになった。青森県警の若い二人の捜査員とともに、屈辱的な手錠姿で八戸駅に降りると、好奇心をもった多くのマスコミが、眩いばかりのフラッシュを浴びせかけてくる。航介は、パトカーのなかで、地元紙に今回のことが大きく報道されていることを聞いて愕然とした。
「たいしたことじゃないのに…」
しかし、航介には別の容疑がかかっていたのだった。八戸で起きた女子中学生殺人事件の犯人として。被害者は、アーニランと同じ当時十四歳の娘だった。航介は、そのとき大学生として京都にいたものの、何ヶ月も前のことでアリバイを証明することができなかった。
鶴岡署では肉体的に堪えたが、八戸署では精神的に堪えた。面会に来た航介の父親と母親は、数週間前に比べて明らかにやつれており、ムラ社会特有の社会防衛システムに苦しんでいるようだった。「お前を信じているぞ」と言ってくれてはいるものの、葛藤に悩んでいる両親の姿を目にしたとき、フェリーでアーニランをナンパしなければよかったと後悔した。そのくらい、航介の判断能力は低下していた。
一方、実家と京都のアパートには、家宅捜索がはいった。パソコンや日記、スケジュール帳の類はもちろんのこと、ゴミ箱の中味や布団に落ちている体毛までもが回収された。しかし、航介がもっとも大切にしていたある物だけ、押収されることはなかった。
ペットボトルに入ったメモと将棋の駒である。
捜査員は一瞬興味をもったものの、小さい頃からのクセを知る母親の一言で、その難を逃れた。
「お隣の坊やのために作ったおもちゃなんです。」
航介には、自分の大切なものをジュースのペットボトルに隠すクセがあった。飴やガム、そして肝油のような菓子のほかに、ガチャガチャの景品用消しゴムなどがよく入っていた。航介の母親は、その不衛生さを怒り、あるいはムダ使いを叱ったものだった。
航介の大切な宝物の一つは、航介を産み育てた母親によって、室の下に隠されることになった。
長期の勾留によって思考低下が著しかった航介に、勇気を与える存在が現れた。ただし、反面教師として。航介を弁護しようとする国選弁護人の男の目は、明らかに死んでいた。顔つきもあの大学教授に似ている。「やったのなら、早いところ認めたほうが有利になる」などと吐かしたヤメ検弁護士は、航介の闘魂を復活させるものだった。
「やってないものは、やってないんですよ。誘拐だって冤罪です。アンタみたいな奴が弁護士やってるから、このあたりの被告人は、飲み屋での些細なケンカなのに、懲役で三年も食らうことになるんですよ!」
航介は、弁護士の力が弱い地方部での、重い判決になりがちな傾向を以前から問題だと思っていた。
「キミは、アカか?」
その弁護士は、さらに意味不明なことを言う。
「おまえ、バカじゃないのか。弁護士としてやることやれよ!」
航介は、弁護士にまで屈辱的なレッテルを貼られたことに、言葉づかいをわきまえず憤慨した。
「キミは、巷では左翼呼ばわりされているぞ。」
「なんだよサヨクって。おまえらの世代の話だろうが!社会に少々問題意識を持ったらそれか?」
その弁護士は薄ら笑いをしながら、商工会のお偉いさんがそう言っていただの、教員がそう証言しただの、およそ理解できない態度で伝言した。
留置場に戻った航介は壁に向かって、ひとり考えた。この数週間の囚われ様は、一体どういうわけだろう。慈しみが誘拐とされ、恋愛が淫行とされる。薄弱な捜査力は冤罪被害者を生み、その被害者にフラッシュを焚く無慈悲なマスコミは、権力の狗となったエセジャーナリストの集合体だ。弁護士すら怠惰で、容疑者や被告人を最後まで守ろうとしない。さらに、教え子を左翼呼ばわりする官憲教員と、地域の自称名士。どいつもこいつもバカばっかりだ。
しばらく考えた航介は、これらのことは神仏からの試練なのではと思うようになった。航介にさらなる修練を求めているのだと考えてみた。真心をこめて禹歩巡礼をしてきた自分に、天罰などくだるはずがないだろう。わざわざ自己紹介をされた総鎮守の八幡神から、叱られるわけなどないだろう。
「オレは、エリートだ!」
この数週間で削がれた肉体と精神のおかげで、新たなモチベーションがその冒険者にもたらされた。
力強いアスリートに、肥満はいなかった。清らかな求道者に、野心家はいなかった。
「なかなかのコネだな。」
これまで、卑怯なやり方で挑発してきた下っ端の看守が言う。航介には心当たりがなかったものの、なぜか釈放されることになった。誘拐容疑ですら無罪放免になった航介は、その気性から各方面を煽り、民事裁判を起こしてやることを考えた。しかし、金銭的な面でこれ以上親に迷惑がかけられるわけがなく、また弁護士への不信感から我慢せざるを得なかった。冤罪被害など最悪の権力犯罪なのに、こうやって人の良さに救われている権力やマスコミが多いのだ。「恨むこと」を良しとするどこかの民族とはちがって、「水に流す」という高等な民族性は、航介にも貴き血として受け継がれていた。
しかし、社会はなかなか厳しかった。活字や映像の影響は甚大だった。航介は、若いディレクターの編集ひとつで白が黒に映ってしまう合法的な暴力を、身をもって体験した。
「マスコミなんか正義じゃない。全部、権力者の受け売りで、垂れ流しやないか!」
彼らによって煽られた偏見や差別という社会防衛システムは、「おことわり」記事掲載後も、機能的に発揮されていた。航介は、権力者によるイジメを、花粉症のアレルギー反応のようだと嘲笑い、あえて余裕を持つように心掛けた。
「出世したら、干しあげたんねん」
ところが、悠長にしていられない大事態がおこった。航介の母親が心労から倒れたのである。航介は、自分がどうこう言われるのはよかった。なぜならば、自信があったからである。しかし、身内に影響が出たことで短気をおこした。
「やられたら、やり返す」
自分を産み育ててくれた大切な母親への攻撃は、航介にとって、明らかな宣戦布告だった。