TS配信という超ニッチな面白さを分析してみるテスト
一、TS配信とはなにか?
TS配信というニッチなジャンルをご存知だろうか。
知らない人のために簡単に説明しておくと、
TS=トランスセクシャル。性転換。ほぼ9割程度は男が女の子になんらかの理由で変転してしまい、そのドキドキな生活を描くというジャンル。
配信=動画配信などの配信描写を中心に描くジャンル。
あわせて、TS配信である。
さて、このものすごく狭い趣味であるが、わたしなりに考えてみたところ、この作品は理にかなった面白さがあると考える。
ふたつのジャンルにまたがっている以上は、その二つを因数分解してみるのがよいだろう。というわけで、まずはTSの面白さとはなにか?
二、TSというジャンルの面白さって?
じつはこのTSというカテゴリはサブセットとして位置する。
たとえば、ここ「なろう」においては、主人公最強やハーレムや追放や復讐や悪役令嬢が流行のようであるが、それら物語のメインストリームにすえることができる属性に比べて、TSというのは一キャラクターの属性に過ぎない。
この一キャラクターの属性に過ぎないというところは、チートと似ているところがあって、他の属性とそれほど被ったりはしない。
つまり、理論上はTSしながら冒険できるし、TSしながら追放されるし、TSしながら無双だってできるわけである。悪役令嬢にTS転生するということも可能だ。
したがって、TSはアクセントとして機能させることが可能であり、現になろうでの多数派は、TSを大々的にとりあげることはなく、主人公ないしはその他のキャラクターの属性程度にとどめていることが多い。
TS小説の宿命として、TSして意味あるんですかという物言いがつくことがあるが、そもそもそんなものは存在しない。
ただの属性なのだから。
ただのワンポイントなのだから。ただのアクセントなのだから。
そこに物語のメインストリームとなりうる属性としては、据え置いてもいいが、据え置かなくてもいいのだ。
じゃあ、なにが面白さなのか。
物語に関わるところではないとすれば、読み手としての刺激は一つに絞ることができるだろう。
TS少女はかわいいということである。
このかわいさというのは、性転換にともなう動揺がかわいいというところでもあるし、可憐な少女がオレっ娘でかわいいということもあるだろうし、女としての経験値のなさが無垢な少女としての属性になっているところがかわいいところもあるだろう。
このかわいさを主人公として享受する場合、TS少女の『美』は主人公の個性として、レアリティを保障することになる。
例えば、なろう小説でチート能力を出す場合、ほかのキャラクターにチートを付与するのは、主人公のアドバンテージをいちじるしく損なうので、読者にとっては多大なストレスになるだろう。逆に言えば、チートというのは、読者のノーストレスを保障するための装置なのである。
で、TSというのはレアリティチートであるから、主人公が世界で一番かわいくて愛されるキャラクターであることを裏打ちする。
ここにTSの面白さがあるのだ。
ちなみに、このレアリティチートの要素『だけ』を取り出したのが、あべこべ世界妄想であり、男が極端に少ない世界の物語である。
TS亜種というタグがついていることがあるが、まさにそのとおりである。
三、配信というジャンルの面白さって?
なろう小説のハーレムなどを見てもらえばわかるとおり、一定の需要として、主人公が承認されるというプロセスをはずすことはできないと思われる。
つまり、他者から賞賛され、赦され、あるいは惚れられる。
人間として素晴らしいといわれ、実際に比類なき実績を打ち立てる。
このプロセス自体は、古典的な立身出世的要素なので、特になろう小説だけが特別なのではない。
ただ、他の小説群に比べて、なろう小説ではともかく速さが求められるところではあるし、失敗するかもしれないというような不安を感じさせてはならないという点が特異といえるかもしれない。
成功は必ず裏打ちされていなければならないし、余裕をもって達成されるものでなければならないのである。
さて、ともあれ『承認』に価値を置いた小説であるとしよう。
この承認とはいったいなんなのかというと、当然のことながら他者からの承認である。
ハーレムは承認の究極的な形態だ。
ハーレム要員になるのはほとんどの場合、美少女であるし、献身的である。主人公に対してベタぼれであるし、否認することはほとんど無いといえる。
要するに、主人公は他者との葛藤やコンフリクトを感じることなく、ノーストレスに承認欲求を満たせる。
そこに本当の他者はあるのかといった問題はあるが――問題ない。そんなくだらない問答をしたいなら哲学書でも読めばいいのである。(個人の感想です)
いや、この点は非常に大きな問題なのだが、結局、なろう小説の効用としては、かわいい女の子に承認されたいという欲求が大きいということを確認したい。
この承認は『個』としての全的存在の投棄である。
仏教で言えば、飢えた仏僧に対して、ウサギがその身を投げ与えたように、ハーレム要因に対しては、無限に甘やかしてほしいし、無限に愛してほしいのだ。
無限の愛ということであれば、ひとりでもいいと思うかもしれない。
しかし、それでは足りない。
幾人かの視線をそろえることで、主観的に愛されているという事実だけでなく、客観的に主人公は愛されるべき存在であることを担保するのである。
つまり、ハーレム要員とは世界の先端であり、主人公は世界に愛されていることを確認するのである。
さて、ここまでは個の愛であった。
愛の質ともいえるかもしれない。
しかし、ここで問題となるのは、『承認』は、誰かひとりに承認されれば、それでいいのかという点である。
もちろん、誰かひとりにでも愛されればなんて物言いは、メロドラマでもよく聞く言い回しであるし、その刺激――面白さ――享楽を否定はできない。
ただ、主人公は世界に無限に愛されることを要求しているのである。
簡単にいえば、ツイッターのフォロワー数を思えばよい。その数がドンドンと増えていき、いいねされる快感というのが、なろう的享楽の正体である。
場合によってはひとりの承認が、人類の承認の総量を超えることもあるだろう。
君さえいれば世界が滅びてもいい的発想だ。
だが、極限的に薄められた群が、主人公を愛するというのもまた享楽のひとつ足りうるだろう。
主人公が個による質的な愛だけでなく、群による量的な愛を得るというのも享楽たりうるだろう。
配信とは、それを機能的に供給する装置足りうる。
それが、配信の面白さである。
四、だからTS配信は面白い。
TSしつつ配信もする。
これは面白さのシナジー効果があると考えるのが妥当である。
なぜなら、TS少女はレアリティによって裏打ちされたチートにより世界から――つまり『量的な』他者から愛される運命にあるし、それを配信によって、常に確認できるからである。
いくつかのTS小説を読めばわかるが、TS少女が主人公の場合、基本的には男女問わず愛されるというパターンが多いが、それは他者から『かわいい』と承認されることによってもたらされる。
かわいいの承認を質的な側面だけでなく、量的にも担保する。
ここでは個が融解しているので、配信者と視聴者は衝突しあうこともなく無限にイチャイチャできる。
まるで、漫画きららのような誰も傷つかず、誰もが認めてくれる、そんな夢幻の空間なのである。
だから、TS配信は面白い。
五、でも、なろうはファンタジーじゃないとダメなんじゃ?
ここが問題どころかもしれない。
とはいえ、ファンタジーでも、量的承認はありうるのではないか。
例えば、ファンタジーにスマホを持ち込んでもいいわけだし……、
ファンタジー世界を生配信してもいいかもしれない。
わたしは今おもしろい作品を書いていると自分を洗脳するためのプロセス