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前科一犯

作者: 高木和久

昨日、わたしは生まれて初めて牢屋に入りました。

『捕』という字が手篇で、なにかしら獣のような悪臭を放っているように感じる。盗んだ。その言葉の響きが口から発せられるとき、とても重大犯罪を犯してしまったと思う。このときの羞恥心のさざ波は一生涯、わたしの耳から消え失せることはないでしょう。


 わたしはほそぼそと生きて参りました。役所から生活保護をもらいながら、母と二人、それこそ肩を並べて今日まで歩いてきました。わたしに第一声を浴びかけたのは、営業職から転職されてきたお巡りさんでした。バブル崩壊の矢先、契約社員として勤め、警察官採用の年齢制限ぎりぎりに合格されたと言っておりました。



被疑者は大田区馬込付近の駐車場から、放置された盗難自転車を営業の足とするため盗む。本日午後五時三十五分逮捕される。スーパーマーケット〇×にある電柱で逮捕住所確定。警察署本部盗難届けによると半年前、神奈川県鎌倉市で何者かによって施錠破壊、防犯登録シート毀損、多人数の手を渡ってきたものと推測。



両手で顔を抑えずにはいられなかった。二階。神奈川県警〇〇警察署。薄暗い階段を昇り、二十年前の机や椅子が置かれたオフィスへ。四畳半の個室へ入る。幸い鉄格子はない。俗に言う取り調べ室でしょう。荷物を脇の机の上に置け。凶器は持っていないな。

高校生の頃、運送会社でアルバイトをしていたときの上司に似た?武田信玄?を思わせる風貌。わたしと同じ年ぐらいの、そのお巡りさんは言う。

「お母さんに可愛いそうだろう。細腕で男の子を育て、就職氷河期を乗り越え、真面目にやっていたのに……」

そのとき、下の階から大きな話し声が響きました。

紺の作業服を着た上司がやってきたのでしょう。彼は部屋の外で「会社には内密に」と言っていました。出入口から見えない脇に立ち、わたしの顔を見ようとはしない。なんだか恥ずかしい。だがうるんだ目頭がまばたきを覚えるころ、彼は音もなく飛び込んで来ました。


「なにやっているんだお前!明日事務所へ名刺全部持ってこい」

彼の鋼のような胸板が揺れている。さわやかな短髪が、汗ににじむ。人間味のある上司でした。三十前後の男の優しさを持っていました。


写真を撮った。手配写真の様。正面、横、斜め。身長、それから靴の大きさを測る。パソコンの前に座り、指紋を細かく、何枚もスキャンされました。ディスプレイに映された、真っ黒で重厚な指紋を見つめる。わたしは生きている気がしました。


初めての逮捕だったこともあり、起訴猶予処分になりました。

「次やったらアウトだからね」部下のお巡りさんは優しく言った。だがわたしの個人情報は、死ぬまで警視庁のデータバンクに蓄えられるでしょう。正直、惜しい気持もある。魔も刺せない。

会社は?

世間も大事だが、わたしはまずみなさんにざんげしたいのです。悪いことは出来ない。真面目にこつこつと努力をしよう。怖がることはない。正しい道を歩んでいるのだから……。

ピンク色をさせた晴天の下、街中を歩きながらつぶやく。みなさんに伝えたいのはこのとおり書き記したこと。世界の外れに行っても、わたしは昨日から逃れることは出来ない。

そんな運命を、わたしは間違いなく背負っているのです。わたしはさんさんと輝くお日様に誓います。二度とやらないと。しかし人間は罰がないと、悪いことをしてしまうものなのでしょうか。かつて孟子は正善説を唱えました。ほかにたくさんのひげを生やした学者たちが、根堀葉堀と同様なことを「わが思想だ」とたかだか唱えました。

最後に一言だけ言わせてください。そんなつもりはなかった。占有離脱物収得罪は立派な犯罪です。一年以下の懲役刑です。たとえば豪雨のさなか、置き忘れた傘をなにくわね顔で手に取れば、間違いなく『豚箱』行きです。たしかにお巡りさんもそう言っていました。

このわたしは川に浮かぶ、迷子の枯葉のようなものです。




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― 新着の感想 ―
[一言] 「昨日、わたしは生まれて初めて牢屋に入りました」。このように主人公が読者に語りかけるようなスタイルで、この小説は書かれているわけですよね。なのに途中から、語り掛けになっていない部分が顔を見せ…
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