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第六感  作者: そば茶
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序章 出会い



「ねえ、沙希。起きたときに朝の匂いがしないってどういう気持ちか知ってる?」

「そんなのユリじゃないからわかんないよ」

「そう言わないでよ。想像してみて。朝起きて窓をあけて風を浴びても、何の匂いも感じることができないんだよ。」

「うーんそれでもわかんないや。とりあえずわたしはいま眠いから寝る」

沙希は常に素っ気ない。自分以外のことに興味がないから、女の子の必需品のとりあえず肯定の相槌を打つ。ということはしない。優しさを感じない人。淡泊な人。でもだからこそ私は、沙希と一緒にいないといけない。そう思い込んでいたいの。なんとなく。嗅覚を失った私を、留めていて。ここに。


 目の前には真剣な顔をしたメガネの医者。大仏みたい。ザ・仏頂面。ナムアビダブツ。まん丸のメガネのふちを右手の中指で押し上げて大仏の口が開く。

「親戚の方をお呼びしないといけないとお伝えしましたかと思いますが」

「両親は死別してますし、祖母は遠方なので。」

「そうですか。では仕方がないですね。率直にお伝えいたします。あなたは嗅覚を失っています。原因は不明ですが、いま世界中で同じように嗅覚を失っている人が五万人もでています。これは偶然ではないでしょうし、いま原因解明に奔走しているところです」

 なにそれ。意味わかんない。ですですしゃべるな医者のくせに。死を意識しちゃうじゃん。世界なんか関係ない。

ある日、電車の最後尾から駅を眺めたことがある。どんどん駅から遠ざかるたびに何かを失っていく感覚。それを寂しさと呼ぶのかもしれないけど、次の駅に着き、また次の駅に着き、ということを繰り返すと最初の駅に対して感じた寂しさが薄れてしまっている。寂しさも忘れていく刹那的なものだと思うと、また一層気が滅入ってしまう。そう感じたその日から、快速電車に乗れなくなった。駅を飛ばすと、寂しさを感じることなくあっという間に移動が終わってしまう。時間だけでなく感情まで短縮されてしまったら私は嫌だ。

「んー適当に処方出してください。急いでいるので」

 仏頂面の眉間がひそひそと、囁きあう。

「すいませんが、処方は出せないのです。原因不明であるので、こちらとしても適当な薬を渡すことは難しいかと思います」

 適当ってそっちじゃないよ。テキトーのほうだよ。イライラした私は部屋を飛び出した。背中に唾のような文言が飛ばされてきたが、生憎届きはしなかった。それにしても、さっきの発言を要約すると、「てめえに飲ます薬ねえから」じゃん。なんなの。むかつく。大股で出口の自動ドアに向かい、案の定ぶつかった。でも、わたしは笑う。ヤブ医者に嗅覚がないという芝居をされ、最後ドアにぶつかる。コントの一環に思えて、なぜか他人事のように思ったからだ。

 ところが、劇場は一日では終わらなかったらしい。

自分の部屋に友人たちが来ると、いつも「東南アジアの雑貨屋の匂いがする」と、言われた。シナモン系の匂いもするらしい。自分ではそこまでは思わないものの、朝起きるとなんとなくモヤモヤした異臭を感じてはいた。

 布団を体からはがして、冷蔵庫の前にいく。たしか期限切れの納豆があるはずだ。扉をあけ放ち、奥に埋もれている、白い四角の角をつかみ手前にひいた。

 賛美歌が頭を駆け巡る。そして、発熱した脳は突然ショートして落ちた。

 匂いが、しない。真空に放り投げられたよう。まったく、しない。

「嗅いでよ。仕事してよ。なんのために二つの穴が開いてるの。ピアスの穴は怒られる。でも、おまえたちは最初から開けられてるじゃん。特権捨てんな。ばーか」

 嘆いても聞こえるのは冷蔵庫のジーンという音だけ。一向に私の鼻は仕事を放棄していた。匂いがしなくても、不思議と腹は減る。非常事態のはずなのに、ご飯を食べたいと思ってしまった私は多分罪深い。背徳感を横にスライドさせて、ガス台に置いてあった昨晩の残りの鍋を食べることにした。

 標高七十センチほどある、食べ終わったカップラーメンの容器の山をかき分け、机に置いた。最後の悪あがきで、中の残り汁が弾む。空気中に溶け込んで、残りが右手の甲に降りかかる。乙な表現をしている場合ではない。

 やっぱり、匂いはしなかった。しないのかーやっぱり。病院行こうかな。

 とまあそんな軽い気持ちで、勝手に治るもんだと思って病院に来てみたらこのザマ。あいつはきっとヤブ医者にちがいないけど、生憎、 他に診療してもらえるようなお金もない。

 そのまま眠気に押し込まれ、気づいたら朝だった。合鍵を持っている沙希は勝手に入ってきたみたいで、横でスヤスヤしている。そんな寝ていた沙希を起こして、めでたくもない一日が始まったのだ。

 さて、失ったのは嗅覚だけ。支障はあるものの、生きてはいける気がした。結局私はそんなことを思いながら、勤務先のオフィスへと足を向けている。視力はまったく変わっていないのに、なんだか景色はどんより曇っている。

「ばかじゃないの。なんで会社向かってんのさ」

 どこからか声が降ってきた。人混みへと消えていったが、私の胸には、しっかりと吸い込まれた。

 深呼吸。そうだ。今日はもういいや。公園にでも行こう。こうして、私のハイヒールの目的地が公園行きへと変更された。今日の私は回送バス。営業終了グッドバイお給料。

 エーデルワイスを手のひらの先に向かって口ずさむ。消えた嗅覚への手向けのつもりだ。ヤブ医者が言っていた、世界中で嗅覚がなくなっているのは本当のことらしい。公園に来る前に、生まれて初めて新聞を買ったら、一面に書かれていた。世間を知らなかったのは私のほうだったわけ。頭上に見える雲が私をあざ笑う。勝手に笑え。君が降らす、ツンと香るじめじめとした雨の匂いがしないと思うと、せいせいするよ。

「やーい臭いな。こっちまで匂いがすんぞ。あっちいけー」

 小学生たちの声が聞こえる。どのくらい時間が経ったのだろうか。すっかり目の奥のざ

らつく虹彩は七色に揺れていた。喉の渇きに羽虫が迷い込む。私は食虫植物。耳に届く声は次第に穏やかではなくなってきた。

「てめえのせいでこっちまで迷惑かかるんだよ。帰って風呂死ぬほど入れ。それで死んでしまえ」

 どす黒い声が遊具に跳ね返って、私の葉に捕まる。取捨選択している暇はなさそうだ。瞬時にそう判断した私は、気づいたらもう動き出していた。

 目の前に立つと、案外大きい男の子だった。たかが小学生とは思っていたのだが、最近の子どもは発育が良いらしい。でも、私には言葉を発する義務があるように思えた。

「ねえ、、」

あれ、どうして。子どもはきょとんとしている。そりゃあ、当の私が一番きょとんとしたいぐらいだ。なぜか、第二声が続かない。言いたいことはたくさんあったのに。いじめに対する無意味さや、相手の気持ちを考えなさいなどの決まりきった台詞を、大人が諭す具合で話そうと決めて、目の前に立ったのに。

 知らない大人に「ねえ」と声をかけられ、無言で見つめられたことがかえって功を奏したようだ。子どもたちは、時折振り返りながらも、足早に去っていった。

 問題は私だ。なぜ声が続かなかったのだろう。試しに声を出してみることにした。あ、あああああああ、ああ。脳に私が発するはずの「あ」がこだまする。出ない。なんででないの。喉に何か詰まっているはずもない。嗅覚と一緒で声も病気のせいで出ないのか。自分の体のことであるのに、まったく事態がつかめず、私はもうなにがなんだかわからなくなっていた。

 不意に視線を感じた。視線の主は、さっきのいじめられていた小学生だった。幼い尖った黒い瞳が、私の奥を捉えていた。

「、、、動きがうるさいんだけど」

「ごめん。でもここ公園だからさ。なにしたっていいじゃないかな」

 わたしはそう言おうとしたのに、声が出ない。なんだ動きがうるさいって。近頃の若いもんは、などど年寄りじみたセリフを言いそうになり、なんだか妙におかしくなって笑い出してしまった。まあ声は出ないんだけどね。

「おばさんなんでそんな爆笑しているのに声出ないの。すごいね」

 と目をくりくりさせて言われても、声が出せないのだからしょうがない。私の中の絶望を、小学生に伝えたところで何も変わらない。笑うことしかできない。私は空から見放されたようだし、なにより私という悪をもうこれ以上伝染させたくなかった。なかったのに、なぜか私は、目の前のおめめくりくり坊主に、私を伝えたかった。


 


 

                                                                                                                              


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