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レグルスの英断 4



 ―――柊港は、那岐の中で特別なひとになった。……はじめての現場で、はじめて亡くしたひとだった。

 本来はこういう風に個人を特別に思ってしまうことはいけないことなのかもしれない。―――けれどどう言い繕ったって、柊港は那岐にとって一生忘れることの出来ないひとだった。

 あれからもう二十年近く経ち、那岐はあれから、大人になった。……成人したという意味ではない。もっと……もっと別の、意味でだった。心や、想いや。

 あれからたくさんのひとを助けた。そして、あれからたくさんのひとを亡くした。

 たくさんの家族が笑顔でお礼を言ってくれた。たくさんの遺族が泣き顔で、それでも笑おうとしながらお礼を言ってくれた。

 恨み言も言われた。呪われるような言葉も吐かれた。

 辞めようと何度も思った。でもその度に、柊港の最期と柊の妻、そして柊幸を想い出す。

 ―――自分はあんな風に、なれるのだろうか。

 那岐自身、結婚もし子供も産まれた。

 一番上の子は今高校生だ。反抗期だが、他所での話を聞くと那岐のところはまだやわらかいものなのだろう。

 あれから柊親子には会っていない。あの雨の日が最後だった。

 ―――ふいに取れた長期休みに関西に足を運んだのは、虫の報せと言う他なかった。

 ふと柊港とその家族のことを思い―――そして墓参りをしようかと思い、記憶を呼び起こした。あの葬儀の日ちらりと立ち聞いた話だと、遺骨は柊港の故郷である関西の桜の名所で有名な土地に眠らせるということだった。新幹線に乗り、レンタカーを借りてやって来たその街―――穏やかな田舎に心がやわらぐのを感じながら、近くを歩いていた町民らしき女性に柊というお墓はないかと訊ねると、幸いなことにすぐにわかったようで詳しく場所を教えてくれた。この地ではめずらしい名字らしいのと、そしてその女性自身も柊家と縁があるようだった。なので少し嘘を吐いて誤魔化す。大学の後輩だと、少し申し訳なく思いながら。

 教えられた霊園へ車を走らせ―――二十分ほどで、那岐は目的地へ到着した。

 車を下りて、助手席にあった花束を手にする。

 柊家の墓石は、すぐに見つけることが出来た。

 綺麗に清められた墓石。

 そこで永眠る、柊港。

「―――……」

 あれから那岐も、大人になった。

 苦しんで、よろこんで、そうして時間を過ごして、大人になった。

 那岐はもう、あの頃の柊港よりも歳を取った。―――けれど。

 いくつ歳を重ねても。どれだけの時間を過ごしても。あの時の柊港にも、あの時の柊幸にも追い付ける気が、しなかった。

「…………」

 手を、合せて。

 心で告げて―――踵を、返す。

 一直線に続く霊園の先から、誰かが歩いて来ていた。

 お参りに来た誰かだろう。花束を持ったその姿。……女性、だった。徐々にお互い近付いてゆき、そして―――

 その髪が、陽の光を受け、ふわりと色を変える。

「―――」

 眼を―――見開く。

 細い手足。華奢な身体。

 成長したとはいえ、小柄な体躯。―――そして。

 同じ色。

 血に赤く染まっても、雨に黒く染められても変わらずそのどこにもない色を湛えるあの髪。

 その眼が―――すべてを吞み込みそのまま映す、海の底の光のような深い深い眼が、那岐を見た。

 見つめ合う。―――行き会って。

「―――こんにちは」

 誰かを参ったあとだと思ったのだろう。あの時よりも少しだけ大人びた、けれどほとんど変わらないその声が、……通る声ではない。だがやわらかく聴覚に馴染む声が、そう言った。

「―――こんにちは」

 那岐も、応えた。ぎこちなくも、なんとか。……大丈夫だ。何がと問われれば自分でもわからない何かを、自分に言い聞かす。大丈夫だ。

 覚えているわけがない。病院でたった少し、ほんの一言二言を交わしただけの那岐のことを―――この少女が、覚えているわけがない。

「―――いいお天気で、よかったですね」

「……ええ、本当に」

 足を止めた那岐が、ついそのまま少女を―――否、もう二十歳を越えているはずだが、変わらず『少女』という呼び方が通じそうなくらい若々しい―――柊幸を見つめてしまっていたので、少女はそうやわらかく言った。……墓参りだから、いい天気でよかったですねという意味なのはわかっていたが、那岐にとってはどうしても、……どうしても、あの雨の日の続きなのだと、思い浮かべてしまった。

 あの残酷な日。

 残酷な言葉をすべて吞み込んだ、あの時の少女。

 そっと風が吹き、靡いた髪を、そっと柊幸が手で押さえる。―――ふわりと色をまた変えたその髪が、髪先で柊幸の手のひらをやさしく撫でる。……手のひらに一文字に走る、まだ一年も経っていないであろう大きな傷跡。まだ赤々しく色を残した、ケロイド状になった傷。

 手のひらを横断するほどの大きな傷だった。当然その時適切な処置はされたのだろうが、自分がその時その場にいればと思い心が痛くなる。

「……お嬢さんは、どなたに会いに?」

「父です。命日ではないのですけれど、わたしは今この国にいないので、来れる時にと。母も家族と遠くで暮らしているので」

「―――そうですか」

 そうか。―――そうか。

 柊の妻は新しい家族を作り、

 柊幸は、今、世界にいるのか。

 あの時、折れそうな足で、細い身体で。

 残酷な現実にも、酷い言葉にも折れず、その心と身体全部で受け止め吞み込んだ少女は―――美しい大人になり、凜と背筋をのばし、世界へ踏み出したのだ。

 広いひろい、世界へと。

「―――そう、ですか」

 本当に。

 本当によかったと。……那岐の全部が、そう言った。

「……あなたは、どなたに?」

「……恩人です。交わした言葉は少なかったけれど……私の心を直接叩いたひとです」

「……素敵な方なんですね」

「ええ。―――素晴らしいひとです」

 あなたのお父さんは。

「本当に、本当に」

 あんなことを言える人間は―――高潔だ。

 恐ろしくなかったはずが、ないのに。

 置いていく恐怖も。

 置いていかれる家族を想う恐怖も。

 ひとり先に、逝ってしまう恐怖も。

 全てすべてを吞み込んだ―――高潔な、ひと。

 血は争えないなと、面映ゆく思って微笑った。

「……お時間を取らせてしまいました。お父さんもお待ちでしょう」

「いえ。……お気を付けてお帰りください」

「お嬢さんも」

「はい」

 頭を軽く下げ合って、進む。―――擦れ違う。一歩、二歩。

 那岐は歩き続けた。……心は、軽かった。

 柊幸もその母親も、一生那岐の嘘を知らない。あの時吐いた那岐の嘘を。それでいい。それがいい。

 それでいいのだと―――霊園の出口で、道を折れた―――その時。

 視界の端に、柊幸の小さな姿が掠めた。

 柊家の墓のある場所ではない。那岐と別れたあの場所に立ち尽くす柊幸。

 どうしたのだろうとそちらを向きかけて―――理解し、瞬時に、

 ―――心が、言葉を、失った。

 柊幸は、その場で頭を下げていた。

 深く深く、下げていた。

 その時わかった―――理解、した。

 柊幸は、気付いていたのだ。―――即死ではなかったのだと。

 いつ気付いたのかはわからない―――あの時、あの病院で那岐に問うたあの時なのか、

 それともそれから時間を経て、あの時の那岐の様子を思い出し辿り着いたのか。

 わからない。わからない。けれど柊幸は、気付いてしまった。

 あれが父の遺した最期の嘘なのだと―――気付いて、しまった。

 柊幸は顔を上げない。深々と頭を下げ続けている。―――那岐が去った方へ向けて。

 那岐があの時の隊員だと気付いても何も言わず、那岐が知りたいであろう、那岐が気にかけているであろう情報を上手に加えて応えて。

 自分たちは大丈夫なのだと。

 そして頭を下げ続ける。いつまでも。

 ―――那岐自身、辛かったであろう嘘を―――父親の願いを、叶えてくれてありがとうと。

 ありがとう、ございました

 あの時廊下で言われた言葉が―――蘇る。

 あの時わかっていたのかもしれない。あの時はわからずとも、けれど何かが引っかかっていたのかもしれない。

 それでもあの女性に何も言い返さなかった、すべてを吞み込んだ少女。

 ―――ああ、敵わない。敵うわけが、ない。

 那岐に出来ることは、柊幸が顔を上げる前にその場から姿を消すことだった。

 痛い。痛い。―――涙腺が、痛い。

 けれど柊幸は、きっともっともっと痛かった。

 もっともっと、痛かった。

 那岐はそれを―――二十年越しに、識った。





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