レグルスの英断
〈 レグルスの英断 〉
その墓石は綺麗に掃除が行き届いていた。黒々とした艶やかな石に刻まれた名前。自分が一生忘れることのないであろう名前。
柊
魔を避ける植物の名前。
冬でも枯れない、命の名前。
その娘を、覚えている。世界を吞み込みそのまま映す、海の底の光のような深い深い眼を持つ、幼く細い四肢で、それでも自分の力で立ち続ける少女のことを。
その髪が、父親と同じように―――光を受けその色をふわりと変える、不思議な色をしていたということも、強く、強く。
那岐が救急隊員として配属された最初の年、最初の現場は、追突事故だった。
現場に駆け付け、そして―――絶句した。
ああ、これは助からないと、心のどこかが、―――救急隊員としての那岐ではなく、那岐という人間が小さく胸で呟いた。
それほど酷い現場だった。
走るスピードそのままに突っ込んだのであろう大型トラックとそれに潰された普通自動車。
自動車がこんなに潰れてしまうのかと思うくらいにぐしゃぐしゃに潰されていた。
負傷者発見、との声を、聴覚がどこかずれたところで受け取り―――一瞬後、はっとして走り出す。要救助者。よく、あの車の中から―――
けれど駆け付けた時、那岐は絶望した。―――どうして。
どうしてこのひとはまだ、生きているんだ。
血塗れの男性。三十代前半か半ばのそのひと。
覗くピンクの肉に在り得ない音を立てる呼吸音。四肢は―――……嗚呼。
「……っ……っ…………」
呼吸の最中、そのひとの眼が、そのひとの黒い眼が那岐を、見た。
ぞくりと、した。
強い強い眼。穏やかな風貌の中でその眼が、その黒い眼が、命の輝きを宿したその眼が―――強くつよく、那岐を見た。
「っ……!」
「那岐!」
上司が傍らに屈み込み、治療を開始する。その最中で救助活動が行なわれる。我に還った那岐も上司のアシストに加わる。意志は思考の表面を滑り落ちるように流れてゆくのに、手だけはどうしてか的確に動いた。
「……たすっ……かり、ますっ……か……」
ごぽ、と血がこぼれる。強い心を湛えたその眼が、那岐を見る。―――全てを。
全てを見透かすような、黒い眼。
「っ……」
那岐は。―――那岐は。
「……っ……」
答え、られなかった。―――それが答え、だった。
「―――ッ!」
瞬間、そのひとの唯一自由だった腕が瞬いた。どこにそんな力があったのかと不思議に思うほど強く那岐の手を掴む。―――縋るようにではない。強く強く、訴えるように。
「つ、ま……に。むす、め、に……いって……」
―――愛情を伝える言葉だと、思った。
幸せを願う言葉だと、思った。
―――けれどそれは、そのどちらでも、なかった。
「そくし……だったと……いって、くださ……」
―――心の全てが、言葉を失った。
「……ぁ……」
瞬間、全身に鳥肌が立つように―――呼吸を殺され、言葉を失い、自分の鼓動だけがどくどくと強く早く血液を送り出す音を耳の中で聞きながら―――理解、した。
このひとは、『伝えて』と言わなかった。―――『言って』と、言ったのだ。
「ぁ、ぁ……」
このひとは全てを理解したのだ。―――激痛の中で。自分の中の血肉が散らばるのを眼にして理解し、その上で言ったのだ。
お父さんは即死だったよ。
残された家族の―――最後の希望になるように。
残酷な希望になるように。
「―――ッ、大丈夫ですよ! あなたは助かります! 頑張って! 頑張ってッ!」
処置の手を止めず上司が言った。が、その強い心は那岐に向けられる。那岐だけに、向けられる。
「たの……む……」
―――那岐は。那岐は。
眼を逸らせなかった、那岐は。
「―――」
思考が滑り落ちる中―――ほんの微かに、うなずいた。
「……ぁ……」
―――そのひとが、安堵したように、ふっと表情を、弛ませた。―――そして。
「……ゆき、ぇ……みゆ、き……」
―――あいしているよ
そしてそのひとは、
その眼から、力を喪った。




