サザンクロスの英雄 19
濡れた髪のままでタオルを軽く被り、二番バンガローの外に出る。一番のバンガローに自分以外の全員が既に集まっているようだった。夜の中、その灯りが煌々として映る。
その灯りを、二番バンガローのポーチからじっと見つめていた。
―――あそこに、自分の弟がいる。
自分に会いたいと願い、遠くの街からその心をぎゅっと抱え、会いに来てくれた小さな子供。自分があの位の歳の時はどんなだった? 父に抱き上げてもらい、母に抱きしめてもらい、姉にやさしくかわいがられていた。何も考えず、何も辛いことにはぶつからず、ただ家族の中で愛情いっぱいに育てられていた自分。
「―――……」
今だって何も変わらない。愛されて育ち、愛されて生きている。―――そう。ずっと、ずっと。
唇を噛んで。その灯りに心が耐え切れなくなって、眼を逸らしかけた―――その時。
甲高い悲鳴が、夜の帳を引き裂いた。はっと顔を上げて眼を見開く。―――一番バンガローからの子供の声。
刹那、想ったのは姉のことだった。
「―――ユキッ……!」
走り出す。タオルが落ちるのも構わず全力で。ほんの数秒で一番バンガローに辿り着き扉に体当たりするようにして中に入った。誰もいないフロア。求めるように廊下に飛び出すと、呆然と立ち尽くす子供たちの姿があった。
「ユキッ!」
子供たちの合間を縫ってその部屋に飛び込む。ぱっとこちらを向き靡いた、見間違えるわけのないあの不思議な色を視界に捉えて座り込むほどの安堵を覚える。姉は部屋の片隅にしっかりと立っていた。怪我をした様子もなく、自身の力で。心が溶けるような安堵に脚から力が抜けるのを必死に抑えながらその惨状をぐるりと見回した。
雛人形の飾られている部屋だった。右からお内裏様、お雛様。薄く笑みを浮べて並んでいる。―――だが。
三人官女から下が崩されたように荒れていた。何体かは床に落ちて転がり、小物等もぐちゃぐちゃに散らばっている。なんてことだ、と、同じく片隅に立っていたトーマスが掠れた声でささやいた。その傍らでスーが眼を見開き顔色を失っていた。
「……悲鳴は、誰が―――」
「ぁ。あた、し」
コニーが震える手を挙げた。
「お、おひなさまが、みた、くて。へやに、きた、ら……こんな、ぐちゃぐちゃに、なってて……アビゲイル、が、」
「アビゲイル?」
部屋にはもう、子供たちが全員いた。アビゲイルを見ると少女はお雛様の一番近くにいた。小刻みに震えながら小さくうなずく。
「わたしのほうが、すこしだけ、はやく、部屋に来たの。……ドアを開けたら、こんな風になってて……びっくりして、固まってたら、コニーが来て、おどろいて悲鳴をあげたの」
「……お前がやったんじゃないのか?」
恐る恐るという感じにマックスが言った。真っ青な顔で立ち尽くすジョーイとリチャードとレオンがそれを止めようとしたが既に遅く、モニカが悲痛そうな声で反論した。
「そんなわけないじゃない! アビゲイルは一番お雛様によろこんでたし一番詳しいのよ! こんなひどいことするはずない!」
「それにわたしたち、アビゲイルが先に部屋に入ってからすぐこの部屋に来たわ! 五分もかかってない! そんな短い間にこんなことするのは無理よ!」
「わ、わかったよ。ちょっと思っただけだよ」
女子たちの反論にたじろいだマックスは何度も細かくうなずいた。やれやれというように他の男子たちが息を吐く。
「こ、これ、熊でしょう? だってほら、窓が開いてる」
「あ……」
モニカが震えて指をさし、漸く気付く。確かに窓が開いていた。熊が入って、そしてこの部屋を荒らして出て行った……?
「アビゲイルが来た時この部屋に誰かいた?」
「う、ううん、でも、物音がして、なんだろうって思って入ったら、こんなふうに……」
早口にスーが訊いて、アビゲイルが答えた。ひとの気配を察知してすぐに逃げたのかもしれない、とトーマスがうめく。
「……ルイスは?」
こんな時に何をしているのかと思ったが、タイミング悪く、女子たちが全員移動したあと三番バンガローでシャワーを浴びに行ったらしい。だから今もいないのか。
「……トウマ。トーマス。スー」
静かに、姉が言った。
「子供たち、ショックが大きいみたい。……わたし、お雛様が無事かどうか、全部チェックして元に並び直すから。全員、二番バンガローに行ってて? それで、ルイスにも報告を」
「あ、ああ」
うなずいたトーマスが子供たちを促す。後ろ髪を引かれつつ、子供たちはぞろぞろと出て行った。最後までアビゲイルが心配そうに残って、レオンがそれを気にして声をかける。
「アビゲイル」
「うん……」
海の色と空の色。ニュアンスは違う碧色が、曇ったような色を湛えている。
「……レオン。アビゲイル」
姉が眼線を合わせた。その深い深い眼で、二人の子供を―――否、二人の『ひと』に、向き合う。
「大丈夫だよ。大丈夫。……アビゲイルが何を心配しているか、わかってる」
は、と、アビゲイルが息を吞んだ。
「その上で言うね。……大丈夫だよ。これは、違うんだ」
その眼が、すべてを吞み込むようにアビゲイルを見つめて―――海の青が、こくりとうなずいた。
「―――わかった。ありがとう」
「どういたしまして」
アビゲイルの頭を撫でた姉が微笑む。頼んだよ、というようにレオンに目配せし、レオンがしっかりとうなずいてアビゲイルの手を取った。
「行こう」
「うん」
うなずき、二人が出て行く。……残ったのは、
「スー」
静かに、姉が声をかけた。
「わたしがやっておくから。みんなと二番バンガローへ行ってて」
「……でも」
スーは真っ白だった。呼吸は浅く、眼は忙しなくうろうろと彷徨う。
「……でも、手伝う、から……」
「子供たちのケアが必要だよ。女性が必要だと思う。スー、あとからわたしも行くから、先にお願い」
「……でも……」
「……スー」
そっと、自分も促すように呼んだ。
「行こう。……ユキは大丈夫だよ」
「……」
そこで、気付いた。……スーは大量に汗をかいていた。
「……?」
……スー? そう呼ぼうとした時、それをやわらかく遮るように、姉が言った。
「トウマ」
やさしい声で。
「スーを連れて、先に行っててくれる?」
「……うん……」
「スーもショックだったと思うから、あったかい飲み物でもみんなで飲んでて」
「……ユキ……」
震える声でスーが言った。……呼んだではなく、言った。
「ユキ……」
「スー。大丈夫。お雛様の扱いは慣れてるからね。わたしに任せて」
明るい声で茶目っ気たっぷりに姉は言った。
「ほらほら、早く、トウマも」
「……スー? ほら、行こう?」
促すように肩に手を置く。スーはその手を振り払った。じん、と痛みが残るくらい勢いよく。
「……スー?」
「……わかった。スーも手伝って? トウマはバンガローに行ってトーマスを手伝って」
「……」
流石に気付いた。おかしい。ここまで意固地になることはない。―――おかしい。
「……わかった」
うなずいて、スーを残し踵を返す―――返し、かけた。
「……やめて、よ」
「……トウマ」
「……気付いてるん、でしょ」
「トウマ早く出て」
日本語で姉が言った。無意識の内に足が止まる。
「早く」
「ユキ……?」
姉もおかしい。トウマをこの部屋から出したがっている。早急に。
スーが言った。
「なんて言ってるか、わからない、けど……」
ぐらぐらに揺れた、
「―――ぜんぶ、知られているんだってことは、わかるから」
壊れそうな声で。
瞬間、がたんっと物音がして雛壇全体が揺れた。それよりも一瞬早く姉の腕が閃きジーンズのウェストから銃を取り出し真っ直ぐに構えた。―――雛壇に向かって。
「やめて!」
「動くな」
スーの叫び声とびん、と張られた姉の声。
沈黙が走る。
「手を挙げて、ゆっくりと出て来い」
姉の声に揺らぎはない。揺らぎなく、その名前を紡いだ。
「レイモンド・ベルトン。―――レイモンド・ペンバートン」
スー・ペンバートンが、声もなく泣いた気がした。