アルコルの餞別 33
街に着き、各自解散となった。結果は後日、S・D社のホームページにて行なわれる。それ以前に、優勝者には連絡が来るだろうけれど。
果たして誰になるんだろうなと思いつつ、何日かぶりに踏み締めたコンクリートの感触を味わうようにして靴底を滑らせた。
「強烈な社会見学だったな」
「まあね」
「ヒイラギはカメラマンとして成功したかったのか?」
「成功?」
少女が小首を傾げた。おもしろくもなさそうに、つまらなくもなさそうに。
「二人目の母が言ったんだ。わたしがどこまで行くのか見てみたいって」
「……」
「その母がくれたチャンスだったから。……試してみようと思った」
「……そうか」
それはあまりにも他愛のない、ひとが聞いたら何故と笑ってしまうような話だった。
それを後生大事に抱え込む、少女の話だった。
飄々として、掴みどころがなくて、決定的に距離を置いている癖にひとのことばかり気にかけて乗り込んで関わって、
あの夜のことを口にしたら、あの時間は確かなものになるだろうか。
わからない。―――あまりにも少女が口にしないから。
まるであの時間が、一夜の幻だったかのように。
ゴーグルもサングラスも失くなった眼が、こちらを見る。
「ハイド」
さよならを言われる前に、ポケットからそれを取り出した。
「やるよ。―――餞別だ」
古びて、鈍く黒ずみ斑になった一振りのナイフ。
覚悟を決めて手放し、そしてまた、戻って来たそれ。
きっともう自分には必要がない。きっともう―――だって、違うんだ。
薄暗い思いを抱えても、きっと次の瞬間、自分はそれを抱えたまま笑うんだ。
「これは武器じゃない。お守りでもない。何でもない。―――でも、俺が持っているもので一番大切なものだ」
差し出したナイフを少女は一瞬きょとんとして見つめ、―――それから、微笑った。
「わかった。―――ありがとう」
白い手に、何でもないそれが握られた。
「ひとつ訊かせてくれ。ヒイラギ」
「なに?」
「お前は誰なんだ?」
「―――さあ」
「誰だった、かな」
微笑み合って
うなずき合った。
「じゃあね、ハイド」
「じゃあな、ヒイラギ」
踵を返す。―――お互いに。
それが別れの言葉に聞こえなかったのは何故だろうと思いながら歩き出し、流れる人混みの中、悪い空気の中、狭い空の下、雑音やひとの声や何かの泣き声や自分の足音や流れる音楽や誰かの鼓動や、全部ぜんぶを聞きながら一瞬だけ違う世界へ行くように眼を閉じ、口元だけで微かに微笑む。
その世界は青い。
抜けるような青ではない。そっと染まるような青だ。―――いつか父と眺めるはずだった、あの朝を迎える直前の穏やかな青。
そこにはすべてがある。自分の見るもの、聞くもの、満たすもの欠かすもの―――すべてがバランス悪く満ちて混ざり合い、何が何だかわからなくなるくらい賑やかで猥雑で、そして何故か、結構な頻度で寂しさを感じる。それと同じように、どうしてだかくすりと笑えるようなことも。
交じり合う。混ざり合う。喚いて叫んで大騒ぎして息をして、何が何だか、わからなくなるくらい。
それでも、チョコレート・プリンの甘い匂いがする。
〈 アルコルの餞別 アルコルの告別 〉




