アルコルの餞別 30
薄青く染まった世界は風に満たされていた。角は丸いが温度の低い風が地面を舐め宙に向かって巻き上がるように吹き抜け、少女の華奢な身体を駆け抜けてゆく。
輪郭が曖昧な世界。一色だった地平線は、空が色を青く染めると同時に違うニュアンスの青に染まって行く。
寒かった。―――けれどどこか、あたたかかった。
夜はまだ、終わっていない。
「……ハイド」
「ああ」
「……ナイフ、貸してくれる」
答えず、応えた。どういう交渉があったのか知らないが、手元に戻って来たナイフを―――手放し、けれど結局手元に戻って来たそれを、こちらを見ない少女に差し出した。
頼りないほど細い白い指が、それを握る。
青い世界の光をきらめきのように返し、透き通るほど滑らかな刃がゆっくりと世界を映し―――さらりと、不思議なグラデーションの髪が揺れる。
微かな音と共に髪が舞い、そして風に乗り流されて行った。
音もなく、嘆きもなく、舞っていく髪。……そこまで短くなったわけではない。それでも、これですべてが終わった、とでもいうように少女は刃を納めくるりと返してこちらに差し出した。
「ありがとう」
「……どうして切ったんだ?」
受け取らず問う。差し出したナイフをそのままに少女は微笑った。
青い世界の中で。
―――それは息苦しく、
―――生き辛い、
―――痛みを孕んだ、
―――美しい、貌で。
「―――違うんだ。もう、あの時のわたしじゃない」
唄うように、ささやくように。
誰かの声を聴くように。
「生きてるだけで、呼吸しているだけで細胞は変わっていく。生まれて、死んで、生まれて、死んで……あの時一緒にいたわたしの身体は、もうどこにもいない。
それが耐えられない。
この肌はあの時触れた肌じゃないし、触れられた肌じゃない。
体付きだって、変わった。
少しでもあの時のままの自分でいたい。……ほんの、少しでも」
それはあまりにも途方もなく、自分勝手で、……身動きが、取れなくなるくらい、
「……お前って重い女だな」
「そうだね」
そうだよ、と、少女はうなずく。
「取り繕ったって。どれだけ抑えようとしたって。……でも結局、ずっとずっとそうだったんだ」
あの時から少しも変わりたくないのだと。
一歩も進みたくないのだと。
喪失を抱え、薄く微笑む少女が仄暗い場所を慟哭する。
―――だから。
「あの夜ダスティンと向かい会った時、思ったんだ。―――ああ、親父は本当に死んでるんだなあって」
だから。―――ロイ・ハイドとロイ・ウィリアムズは。
「だから俺は、ダスティンを殺したくなったんだ」
苦笑いさえ浮かべながら、言う。
「こいつさえいなければって、そう思った。―――見当違いも甚だしいよ。ダスティンが親父を殺したわけじゃない。何をしたわけじゃない。けど、ダスティンを殺したくて殺したくてたまらなかった。親父の心臓は生きたままで、ダスティンだけ殺したかった。そうすべきだとさえ、思った」
理屈じゃない。
理解はいらない。
「……でも俺は、もしいつかまたダスティンに会ったら、そんなことはほんの少ししか考えないで、眼の前にいるダスティンと笑い合うんだ。俺の選択は間違ってなかったって、きっとそう言うんだ。―――心の大半で」
―――どうしても、どうしても、殺したかった。
「全部、嘘だよ」
残酷を、笑って。
「黙ってて、くれるか?」
薄っすらと、―――少女は微笑った。
「いいよ」




