アルコルの餞別 17
薄暗い部屋の中にいた。戻った自室で、ぼんやりと立ち尽くし―――手のひらに視線を落とす。
握ったナイフの錆の匂いが、まだ残っていそうな。
「……」
その時、こんこん、という微かな音が聴覚をゆるく叩いた。
顔を上げて―――眼を見開く。
「―――ヒイラギ」
窓の外にいたのは黒髪の少女だった。
コーグルもサングラスもないその眼は、まっすぐに自分を見据えていた。
「……どうしたんだよこんな時間に」
「話したくて」
窓を開け声を潜めて問うと少女はあっさりとそう言った。入ってもいい? と首を傾げるので仕方なくうなずく。敷地内とはいえ寝静まった夜の中を少女ひとりにうろつかせるわけにはいかない。
「上がれるか。ほら」
「大丈夫。ちょっと場所空けてくれる?」
その場から退くと少女は窓枠に手をかけひょいっと中に飛び込んで来た。その時気付く。少女の右手―――タオルが何重にも巻き付けてあった。
「怪我したのか」
手を掴み引き寄せると少女はきょとんとした。薄暗い空間の中、少女の眼の色まではわからなかった。それが酷く惜しい。
「怪我? ……ああ、これは違うよ。準備して来ただけ」
「準備?」
「窓枠って以外と尖ってるから。この手だと痛いんだ」
はらはらとタオルを解き少女か手のひらを見せた。薄暗い中でもわかる、白い手のひらに走る線。鋭い傷跡。
生々しいほど真新しいわけではない。が、また一年も経っていない気がする傷跡。
「……いつ怪我したんだ」
「七ヶ月前」
「どうして」
「ナイフを掴んだ。一応作業用の革手袋してたんだけど」
「……なんで」
「そうさせたから」
「どうして」
「そうでもしなければなにも変わらなかったから」
思い出すようにして少女は少しだけ笑った。―――少女にとってそれはもう、苦くても微かな痛みを孕んでいても―――苦笑いのように笑って話せることなのだと、わかった。
「私を殺せばそいつの人生は終わるでしょう? 少なくても何年かは縛ることが出来る。仮にそのあと自由になったとしても、もう元の友好関係には戻れない。……それが狙いだった」
「……失敗したのか?」
「半分は」
「どこまで」
「秘密。気にしないでいいよ」
「……お前みたいにやたら小さくて細くて頼りないのがちょろちょろしてると不安になるんだよ。性分なんだ」
「どこから喧嘩を売られてるんだろう」
肩をすくめた少女に椅子を勧めた。座るのを確認してから向かい合うようにしてベッドに腰かける。なんとなく、灯りは点けなかった。
「……話ってなんだ?」
「わたしの写真見たあとおかしかった」
色のわからない眼が、まっすぐにこちらを見据える。
「どうして?」
「―――……」
嘘を答えようとして、
「……死んだあと、」
本当を答えた。
「死んだあと―――ひとが行く世界は、どんな世界だと思う?」
「……」
「どこにあって―――何色だと思う?」
かつん、かつん、と降りて行って。
錆色の空気がねっとりと首元に纏わり付く。
喉はからからに渇き、唾液さえも湧き上がらず口内で舌がぎこちなく力を失う。
赤い煉瓦の壁に囲まれた螺旋階段。
かつん、かつん、かつん……降りて行く。
行き着いた先にあるのは抜けるような青い世界だった。青い。ただひたすらに青い。―――そのベッドの上に横たわるひとの顔色くらい。
そこにはなにもない。空高く輝く日の光も、肌を潤す雨雫も、空に生まれる星の灯りも。
それでも、チョコレート・プリンの甘い匂いがする。
「俺はね……親父が死んだあと、それを考えた。ずっとずっと、考えてた……ずうっとそれを考えている間に俺は孤児院に引き取られて、次々に日々が変わって行った。眼の前のことに全く興味が持てなかった。……最初のカメラは親父の遺品だった。未現像のフィルムがたくさん残ってて、数少ないお小遣いを貯めてそれで少しずつ現像した。毎回毎回、今度こそはって、期待したんだ。……その写真には、」
その写真の中に、一切父の姿は写っていなかった。
「カメラマンは親父だった。写真に写っていたのは俺ばかり。カメラマンは、世界に加われない。その視界を切り取り映すだけで、決してその世界には入れない。親父がそうだったように。どれだけ写真を撮ったって―――一生、その世界には入れない」
かつん、かつん、と降りて行って。
降りた先で見えた世界。
「死者の世界は地下にあって。ずっと、ずっと……下りて行く。少しずつ、世界は青くなっていく。……ゆっくりと階段を下りて行けば、会える気がしてた」
歩き続けて、歩き続けて、歩き続けて。
ずるりと足裏の皮が剥け、じくじくと血の滲む中眼だけを爛々と輝かせ、降りて行けば―――いつか会えるのではないかと、思っていた。
「―――降りて行く、途中なの?」
大きな眼が、自分をじっと見つめる。―――吞み込むように。
薄っすらと微笑んで顔を寄せ、その頬に触れて。
仄暗い言葉をそっと紡いだ。
「俺、親父を殺したんだ」
永遠のような沈黙。
触れるほど近い、輝く眼。
廊下を走って来る、ばらばらとした鈍い足音。
部屋の前でぴたりと止まると、抑えた音でノックされた。
「ハイド。―――ロイ・ハイド。いるんでしょう?」
固い声。ララの声。
「出て来て。―――ダスティンが殺されかけた」
動揺を孕んだ短い言葉。
「あなたのGPSが現場で発見された。―――早く出て来て」




