アルコルの餞別 15
目の前にはゆるく湯気をのぼらせるリゾット。おじや、と少女は言っていたが。
「……うまそうだ」
「……まあ、食べれる味ではあるんじゃないかな……」
うん、と曖昧にうなずく少女に礼を言ってスプーンで口に運ぶ。とろりとした卵とやわらかく煮込んだたくさんの野菜と。やさしい味でシンプルで、いくらでも食べれそうなくらいうまい。
「……うまい。うまい。流石ワショク。たくさん食べても胃に来なさそうだ」
「……限度はあるからね?」
忠告するように少女が言って、斜め前に腰かけた。昨日と同じくキッチンに椅子を出して食べているのだが、今日もまた少女の料理が食べれるとは思っていなかったのでラッキーだった。
「んんん、うまいな。本当。お前いい嫁になるよ」
「どうも」
「胃袋掴まれると男はなんにも言えなくなるぞ」
「女も一緒だと思うけど」
「その内親がうるさくなるぞ。いいひとはいないのかとか」
「ハイドも?」
「ああ。里親とはいえよくしてもらってるからな。そろそろ結婚しないのかとやきもきしてるよ」
「ふうん……」
「ヒイラギはないのか?」
訊いてからそれが無神経な問いだったことに気付いた。
両親はこちらにいると言っていたが日本にいろいろと残してここにいるのだ。
置いて来たもの。
捨てて来たもの。
別れて来たもの。
別れの言葉が言えたのなら、僥倖だ。
「恋人って意味?」
「まあ……ああ」
「いるよ」
「え?」
「いるよ。恋人」
「あ―――そうか」
「うん」
同じくスプーンでリゾットを掬いながら少女はうなずいた。
「結婚は出来ないけど」
「……え?」
付け足された言葉に心臓がぐずりと痛んだ、その時、
「うまそうな匂いがする!」
どかんと勢いよくドアが開きぞろぞろとひとが入って来た。……三人も。
「……ヘザー、ダスティン、ララ……」
「お前だけうまいもの食おうったってそうはいかねえぞ」
にやにやとあえてわざとらしく笑いながらヘザーは少女に顔を向けた。
「なあ嬢ちゃん、多目に作ってないか?」
「おじやしかないですけど。量はありますよ」
「そうこなくっちゃな! で、おじやってなんだ?」
「どうやらリゾットのようだぞ」
「あたため直した方がいい?」
やいのやいのとダスティンとララもぞろぞろとキッチンにある鍋を覗き込んだ。確かに大きな鍋で作ってるなあと思ったが、これを予想していたのか。
「全部食っちまっていいのか?」
「待て、俺おかわりするぞ……ああくそ、一気に騒がしくなった」
「お前の嬢ちゃんじゃないだろ」
いやまあそうだけど。でも結構大事な話をしていたんだが。
……まあいいか、と内心息を吐く。気軽に話しかけて来るヘザーに少女も特に躊躇うことなくうなずき会話しているし、ダスティンはどことなくうれしそうな顔でおじやがあたたまるのを待っているし、ララはふつふつと煮えはじめる鍋を前に気難しげな顔のまま目元だけやわらげていた。
「……ヘザーに釣られて来たのか?」
「私はそうだ。昨日の食事がとてもおいしかったし楽しかったのでね」
「あたしは見回り」
「鍋の?」
「あたしは見回り」
「……わかったよ」
譲る気はないようだった。苦笑しつつうなずいて、無事あたたまったらしいおじやを皿に盛って昨日と同じように席に着く。
「おいしいね。お嬢さんは料理上手だ」
「ありがとうございます」
ダスティンに微笑みかけられ少女は軽く頭を下げた。
「ダスティンは上品だなあ。紳士って感じだ。舌も肥えてるんだろうし、そんなひとに褒められるってなかなかだよ嬢ちゃん」
「うん。うれしい」
「俺のとこ嫁に来るか?」
「ううん。いい」
「そうかあ。じゃあハイドの嫁になるのか?」
「ううん。ならない」
「そうかあ」
「おい、勝手に俺を振らせるなよ……」
「お前がずっと嬢ちゃん独占してるのが悪いんだろ」
「今日はそうじゃなかった」
「でも嬢ちゃん、『被写体になってくれ』って依頼全部断ってたぜ」
そうなのか。視線を向けると少女は肩をすくめた。
「今日はひとりがよかったから」
「そうか。……いい写真撮れたか?」
「まあまあ」
ほっとする。少女の写真は自分の心の均衡を崩すものだったが、その素晴らしさというのは痛いほどよくわかった。
たったあれだけで。
ひとの心を掴んで還してくれないような。
……恐ろしいな、と密かに思う。
まだ若くて、これから未来も路もいくつもある少女が単なる『社会見学』でここに来るなんて。……少女自身このプログラムにそこまでの興味はない。それなのに参加させたトンプソン。……なんていう怪物を放り込んでくれたんだ。
「明日が最終日だし、まだ時間はあるわ……あちこちでみんな四苦八苦しているようだけれどね」
この中で唯一参加者ではないララが言った。時間制限も心の余裕も全く関係ない。どことなく『うらやましい』という視線がふらふらと向けられる。向けなかったのは少女とダスティンくらいだ。
「ダスティンも余裕だな」
「この年になるとね。このプログラムに参加出来た時点である程度満足なんだよ。それに若いアーティストたちとこんな風に交流出来て楽しいんだ」
満足そうにそう言われそうかとうなずく。……なんとなく親父のことを思った。
「このメンバーは気が楽だ。ああほっとした。……周りは結構すごいぜ。ギスギスしてて」
「そうなのか?」
このメンバー以外と交流していないので気付かなかった。ヘザーが苦笑いする。
「酒飲んでどんちゃんやってるけどな。腹の探り合い、被写体の取り合い、えげつないぞ……嬢ちゃんも大変だったろ」
「え?」
話を振られても少女は反応しなかった。無言でスプーンを口に運ぶ。しれっとした表情のままで。
「……なにかあったのか」
「この子のところに何人かモデル依頼する奴らが集まってね。それで揉めごとになりかけたの」
答えたのはララだった。きれいにおじやを食べ終わり皿の上にスプーンを置く。
「どうなったんだ」
「この子が全部断ったし、騒ぎが大きくなる前にディルが間に入った。……昨日あなたの被写体になったから自分もって思ったんでしょうね。この中ではめずらしい東洋人だし」
「まあ、声はかけたくなるな。嬢ちゃんその髪の毛地毛か? 眼を隠してるのも意味がありそうだし」
「地毛だよ。父からもらった。眼は秘密」
「嬢ちゃん、秘密多そうだなあ」
「ヘザーはないの?」
「あるよ。特別に教えてやってもいい。部屋に来るか?」
「行かない」
「残念だ」
「あなた、この子がタイプなの?」
「東洋人はミステリアスに見える。嬢ちゃんは特にそうだ」
「……確かに美しい髪の色をしているね」
ゆったりとダスティンが言った。まるで幼い娘を見るように眼を細めて、
「髪を染める若者も多いと聞くよ。君はその色を気に入っているんだね」
「はい。それに、大切なひとに褒めてもらったから」
「いいね。大事にしなさい。お父上もよろこばれるだろう」
「ありがとう」
この場にいる最年長者と最年少者の会話を中堅どころ三人でなんとなく見守り、どこか穏やかな気分になった時―――窓ガラスを砕け割るようなベルが鳴り響いた。これは―――火災ベル?
ばっと顔を上げたのは全員が同時だった。が、その瞬間立ち上がったのはララと少女だけだった。一瞬遅れて―――少女が立ち上がったのを見て自分も反射的に立ち上がる。
「ここから出て。外に!」
事態を把握するため飛び出したララに続いて少女が飛び出る。避難のためではないのだろうと悟り血の気が引いた。
「ヘザー! 頼んだ!」
「わかった!」
ヘザーが驚いた顔のまま固まるダスティンの肩を叩きエスコートするように立ち上がらせるのを視界の片隅で捉えながら自分も厨房を飛び出す。がらんとした食堂の窓越しに火が見えた。
「―――ヒイラギ!」
「ハイド?」
火の手が上がっているのはミーティングルームのある棟だった。暗がりの中煌々と盛る火と怒号と。ララとディルが消火器を手に火の前に飛び出す。
騒めく人混みの中に少女を見付けた。呼びかけに応えた少女に駆け寄り無意識の内に手をのばしその身体を捕らえる。勢いそのままに抱き寄せて、そのあまりの細さに絶句した。
「ハイド? どうしたの」
「―――急に飛び出すなッ、プロに任せろ!」
「ハイド?」
「二度とやめろ! こんな―――やめ、ろ!」
恐ろしいほど薄く華奢な肩を揺さぶって。
どこか呆然とする少女を見下ろす。
「……ごめんなさい」
ちらちらと舞い上がる火の粉をその薄黒色のガラスに映し、その奥の眼のきらめきさえも捉えそうになって―――眼が眩み、手を離した。
「……いや。……手荒にして悪かった」
「ハイド……」
「水を汲んで来よう。鍋とかあったよな?」
幸いなことにボヤだったようでもう火は消し止められていた。壁の一部が焦げたが穴が空くほどでもない。煙草の不始末かなにかか。
ほっとして息を吐いて―――辺りに蔓延するその焦げ臭さに、じくりと気持ちが悪くなった。




