アルコルの餞別 9
その街に着いたのはそれから一時間程歩いてからだった。見えてからが長い。少しずつじりじりと近付いていくのはあまり気が長いとは言えない自分にとってはもったいぶられているようで健康によくなかった。
「……本当に誰もいないな」
無人の街。風が通る音だけが聞こえる、死んだ街。
風化していく建物。色褪せた自転車。埃で汚れた窓ガラスから微かに覗く、生活の跡。
「……」
誰かが昔ここで息をしていた。そして誰も、いなくなった。
それだけだ。
「……」
ぐるりと視線と巡らせて。少女はカメラを構えた。
邪魔はしたくない。そっと距離を取って背中を向ける。……小さな街だ。それに少女が黙って帰ることはないだろう。……出て行く時した覚悟は果たしてどんな色をしていたのか―――少しずつ終焉に向かい、そしてついに行き止まったその終わりは、どんな色の世界だったのか。
二度と誰も戻らない、終わってしまった街。
「……」
興味を持って、空いている適当な家の中に入った。……濃い埃の匂い。足元には砂埃がうずまり、一歩踏み出すごとにふわっと舞って落ちてゆく。銀糸の蜘蛛の巣を軽く払い、ぎしぎしと軋む床板の上を丁寧に歩いた。
ダイニングルーム。飾ってある写真盾の中には色褪せてほとんど識別出来ないくらいにぼやけたセピアの写真。……辛うじて、三人ほど写っているのはわかる。どうして持って行かなかったのだろうか? それとも……もう、要らないものだったのだろうか?
「……」
唇を噛んで。首を横に振った。かたん、と背後で音がする。
「……家宅侵入は共犯だな」
にやりと笑いながら振り返ると、そこにいたのは少女ではなかった。
「おいおい怖いこと言うねえ。ま、共犯なら通報されることもないな」
「ヘザー……」
リック・ヘザーがそこにいた。へらりとした笑顔を浮かべ、肩を竦める。
「お前もここに来てたんだな」
「……まあな」
うなずく。ヘザーは遠慮なくざりざりと中へ踏み込んで来た。
「埃っぽくて今にも崩れそうな家だな。屋根裏は見たか? 古ぼけた地図が出て来るかもしれないぞ」
「ああ、生憎俺の体重を支えられるとは思えなかったんでね。宝探しは勇敢なお前に頼むよ」
「山分けはしないぞ……ひとりで来たのか? 俺はひとりだが」
「ひとりで歩いて来たのか。それはすごいな」
それだけは素直に感心して言うとヘザーはかはっと笑った。人懐っこい笑顔だった。
「車を借りたよ。台数に制限があるけどラッキーなことに借りられたんだ。ハイドはどこに車を停めたんだ?」
「まあな……」
どう流そうか。そう思った時、かたんと小さな音がした。
「……ハイド?」
声がしたのが不思議だったのか、そっとドアを開けて少女が顔を覗かせた。ゴーグルと相まってなんだかとっても奇妙なものが顔を覗かせたように見え、一瞬ヘザーと共に沈黙する。それが不思議だったのか少女は小首を傾げた。帽子から零れる不思議な色合いの髪がさらりと流れる。
「……あ、ああ、ああ! 嬢ちゃん、あんた嬢ちゃんか! 一瞬わからなかったよ。奇遇だな、嬢ちゃんはどうやってここまで来たんだ?」
「……」
少女の視線が真っ直ぐにこちらに投げられるのがわかった。渋面をばっちりと見られたのも。
「ひょっとして歩いて来たのか?」
「……そう」
「二時間半も! よくやるね! 俺は車で来たんだ。帰り乗って行くか?」
「大丈夫。歩いて帰る」
「二時間半も? ひとりは危ないぜ?」
「ひとりじゃないです」
「あたしとよ。女二人仲良くガールズトークしながら来たの。あなたも加わりたい? 邪魔なもの失くしてからにしてくれないかしら」
家主が去ってきっと早三、四十年、今になって四人もの人間がここに集結するなんて家主も家も思わなかっただろう。入って来た女はララだった。きっちりと束ねた髪を帽子の中に仕舞い、警備服ではなくラフな格好をしている。
「それはそれは! 残念だけど俺は今の俺を最高だと思ってるんでね。男がひとりいるとまたそれもそれで楽しめるぞ? どうだ?」
「また今度にしておくわ。今のところ十分楽しいから」
肩を竦めてララはあっさり返した。参ったね、というように楽しげに笑ったヘザーが踵を返す。
「ヘイヘイ、じゃあ邪魔者は消えるよ……日が暮れたら真っ暗だ、気を付けろよ」
「それを注意するために回ってるのよ」
「それは失礼」
ララが答え、ヘザーはぎしぎしと床を軋ませながらその場をあとにした。……足音が遠ざかって行くのを確認し、ララがふうっと息を吐く。
「……いたのね、あなた。表からだとあいつとこの子しか見えなかったから思わず割って入っちゃったわ」
「ああ。なるほど」
昨日依頼した通り少女を気にかけてくれたらしい―――律儀だなと素直に感心して感謝した。じろり、と睨まれる。
「あのねハイド。見かけ未成年者連れ回すならある程度は責任を持って頂戴。男女間での駆け引きはこのプログラムが終わってからにしてほしいわ。揉めると面倒だから」
「了解」
見かけ未成年。なんとなくおもしろくなって吹き出しそうになり、少女が咳払いしたのでやめた。
「その子は大人でも、子供だと思って手を出そうとする奴だっているんだから……」
「気にかけてくれてありがとう、ミスララ。……あのひと、なにかよくない噂があるの?」
「ララでいいわ。ヒイラギ。そうね、あの男は……」
おもしろくなさそうにララは肩を竦めた。
「聞く? ただじゃ教えないけど」
「ハイド」
「チョコレートプリンなら」
「保存性を考えないのあなたって」
馬鹿なの? という顔のララに鞄から取り出したチョコレートプリンを押し付ける。呆れた顔でそれを受け取ったララはぶんっと勢いよくプリンを振ると蓋を開け、クラッシュされたそれを豪快に口に流し込んだ。こんなワイルドなプリンの食べ方を見たことがない。
「あいつ、たぶん参加者の中で一番このプログラムに力を入れてるわよ。……推薦権を持つ人物にずっとアプローチし続けて、漸く推薦を手に入れたの。とんでもない執着力よ」
もくもくとチョコレートプリンを食べたララは言った。その隣にちょこんと少女が腰掛ける。なんとなくチョコレートプリンを差し出すと小さな両手で受け取り、しげしげとプリンを眺めてからララと同じようにぶんっと振ろうとしたのでやんわりとそれを止めた。プラスチックの小さなスプーンを手渡すともくもくとチョコレートプリンを食べはじめる。
「……それってそんなにおかしな話か? 推薦は、純粋に実力だけで評価されたんじゃないかもしれないが……」
大きな声では言わないし、言えないが。でも粘ることが吉と出ることもある。運も努力も才能の内だ。その人物のなにを評価して推薦するかは、推薦権を持つ人間に委ねられているのだ。少女を推薦したトンプソンはそれまで誰も推薦したことがなかったが、それは彼の琴線に触れる人物が今までいなかったからなのだろう。誰もそれを責めたりはしない。
「このプログラムに参加するだけで業界では名が通るんだ。金を積んでも参加したいって奴すらいるんだ。大勢」
「そりゃそうでしょうけど」
渋面のままララは言った。
「それだけが理由なのならいいのだけれど」




