もういいかい? 泣かない君 3
ぼたっぼたっとなにかが滴るような感覚。濡れているわけではない。身体の中からなにかどす黒いもたつくものがぼたぼたと落ちているのではないかと―――そんな風な錯覚に陥る。
「立岡さん」
その時、音のない風みたいな涼やかな声が降って来た。少し驚いて顔を上げる。
「あ……蕪木、先輩」
蕪木 灯が立っていた。あまり感情のない整った顔に薄く不思議そうな色を乗せ、だいぶ身長差のある弥子を見下ろす。
「どうしたの。暗い顔して」
「え? あ、ああ、なんでもないですよ。いつもこんな風なんです」
あははと無駄に笑ってみたがかえって薄っぺらさを露呈させただけのように思えた。内心渋面を作る。
「……えっ、と。……蕪木先輩はこれからお昼ですか?」
「そう。立岡さんは学食?」
「はい」
「じゃあ一緒に食べよう」
「え? 私とですか?」
「立岡さんと」
こきり、と、蕪木が首を傾げた。細い首筋に筋が浮かび上がり線の細さが露わになる。
「ええと、いいんですか?」
「だって俺たち付き合ってるでしょ」
「あ、」
あ、じゃないよあ、じゃ。どっと冷や汗が滲み出たのを感じあわてて取り繕う。
「そ、そうですね、付き合ってますもんね。はい、食べましょう。是非」
「じゃあ学食行こっか」
くるりと踵を返した蕪木のあとをあわてて追いかける。が、その歩調は極めて弥子に合ったペースだった。彼からしてみれば恐らくとろとろと感じてしまうくらいゆっくり。すごいな、もてるひとはこんな自然に歩調を合わせてくれるのかと感心を通り越して感動する。
「外行けなくてごめん。俺弁当だから」
「い、いえ。お弁当いいですね! 彼女の手作りですか?」
「んー」
「あっ! いえすみません、なんでもないです!」
「うん。席取っとくから、なにか買っておいで」
「はい!」
一緒にいればいるほど墓穴を掘っている気がする―――学食に入り、一度別れたところでそのまま空いているテーブルに突っ伏したくなった。このままで。どうにか。なるのか。
深く深く息を吐いて、食券機の前に並んだ。考えるのが面倒というよりそんな余力もないので無難に日替わりパスタで。
硬貨と引き換えに食券を入手してカウンターの前に並んだ。愛想も威勢もいいおばちゃんに食券を渡してしばし待つ。
運ばれて来たナポリタンとスープ、それから水を二つトレーに載せて踵を返した時、飛び込んで来た光景にそのまま回れ右をしたくなった。
ひとがたかっている。
もちろんその渦中の主は、蕪木である。
「うわああ……」
思わず呟いた声は学食の喧騒に紛れて誰にも届かない。これ、逃げちゃっていいかな・・・・・・と一瞬情けない思いが浮かんだが流石にひととしてそれはアウトだろう。深く深く息を吐いたあとくっと奥歯を噛み締めて歩み寄った。
「お待たせしました」
凛と声を上げたつもりだった。想像の中では。
実際は。
「……すみません……」
蚊の鳴くような声ももう少しましであろうというくらい小さな声をたかるひとの背中にかけることしか出来なかった。現実はいつだって無慈悲だ。
誰も気付かないような声に、蕪木だけが気付いた。ひとの間から顔を上げる。
「立岡さん」
くるっ、と、いっせいにたかっていたひとたちが振り返った。あああこっちを見ないで。背中から汗が噴き出すのを感じる。
「……嘘、蕪木が女子と二人で食べるのか!」
「あれ、お前年上彼女一筋なのに!」
「浮気? 浮気か! 遠距離になったから浮気か!」
「失せろ有象無象」
しっしと蕪木が長い指で彼ら―――全員男だ―――を追いやる。彼らは驚いたような興味深そうな顔で弥子を見て、そのあとにっこりと笑った。嫌味のない笑顔だった。
「騒いでごめんね。それじゃあまた」
「ぁ、はい……」
この子じゃ釣り合わない、なんて顔はしていない。立ち去った彼らは楽しそうに喋りながら学食を出て行った。
「……すみません、お友達が誘ってくれてたんですよね」
「平気。立岡さんも冷めないうちに食べようか」
さりげなく席を促されてやや気後れしながら座る。二人掛けのテーブル、選択肢はひとつしかない。そのことにほっとしたり焦ったり。
「……お待たせしました」
「そんな待ってないよ。食べよう」
蕪木は広げたお弁当を前に軽く手を合わせた。
「いただきます」
「……いただきます」
……このひと、外であろうときちんといただきますをするひとなのか。……少し、意外だった。きっと育ちがいいのだろう。
ぱかりとお弁当の蓋が開けられ、見るともなしに視界にそれが入って来て「わっ……」と小さく声を上げた。
「すごいおいしそうですね。見た目もきれい」
野菜の彩りも豊かなバランスのいいお弁当だった。量はそれなりに多いのが男性用という感じだが見た目はとても丁寧に作られている。
「ありがとう」
「……ひょっとして蕪木先輩が作ったんですか?」
「うん」
「え! ……すごい、お料理上手なんですね」
「俺に料理を教えてくれたひとたちは上手だよ。あとはまあ慣れかな。二人分作ってるから」
「家族の分も作ってるんですか」
「うん。妹の」
さぞかし見目麗しい美少女なのだろう。想像するだけで圧倒される。
ほう、と小さく息を吐いて自分のパスタをフォークで絡め取る。特にこれといって際立つおいしさはないパスタ。何か物足りない、けれども胃に収めるには十分な味付け。
なんだか弥子そのものみたいだな、と勝手に思って胸中で自嘲した。物足りない。味気ない。それでもひととして問題なく生活を送れるくらいには、成り立っている。
「おいしくない? それ」
「え?」
きょとんとしてから―――冷や汗をかいた。不味そうな顔をしていたのか。
「い、いえ。大丈夫です。問題ありません」
「そう? 俺、パスタは作るの少し苦手でさ」
「苦手なんですか」
パスタなんて簡単なイメージだし、実際そんなに手間はかからない。ソースだってあたためるだけのが売っているし、それで済ませてもなかなかおいしい。今食べているパスタよりもずっと。
「ミートソースとかさ。作るのは好きなんだけど、俺よりおいしく作るひとがいてね。いろいろ工夫しても追い付けないんだ」
「ソースも手作りですか……」
簡単とか思ってごめんなさい。
「レシピ訊いてみたんだけど、ざっくりしたのしか本人もわかってなくて。意外と適当なんだよね。感覚で料理してるっていうか。でも料理ってそういうとこあるだろ。そういう意味で俺は全然追い付けてない」
「経験、じゃなくてですか?」
「経験だね。それ以上でもそれ以下でもない」
そのあと、蕪木は食べるのに集中したようだった。……だからだろうか。最後の言葉がぽっかりと浮かんで、そして、なかなか消えてはくれなかった。