アルコルの餞別 7
少女の歩調は思っていたより遅くはなかった。もちろんこちらよりも遅いが、それなりにてきぱきと歩いている。
「なあ」
朝食時と同じ格好の少女に話しかける。日焼け防止なのかパーカーは着たままだった。
「なに?」
「なにか運動でもしてたのか?」
「ずっと文化部だったけど」
「ブンカブ?」
「……運動部には入ってなかった」
「ああ、そういうことか」
チェスクラブとか絵画クラブとかか。
「なんで?」
「いや、ずいぶんてきぱきと歩くから」
「ああ……」
「仕事はしてたのか?」
二十四ならしていてもおかしくはなかった。
「日本にいた時にはね。メインでやっていたのは映画の照明スタッフ」
「……へえ」
技術スタッフだったのか。だとしたら色々と納得だが。
「こっちでも働かないのか。ハリウッドとか。ヒイラギくらい喋れれば簡単だろ」
「あんまり考えてないかな」
照明に未練はないのか。よくわからなかったが、それでもこのプログラムへの推薦状がもらえるレベルの腕は認められているのだ。しかもトンプソンから。あのトンプソンから。
「トンプソンのこと教えてくれるか?」
「……答えられることは少ないよ」
それは遠回しな拒否だった。さらに押したいところだったがやめにする。
「じゃあトンプソンとヒイラギの関係は? どこで知り合ったんだ?」
「……」
黙られた。これも駄目かと横顔を見下ろすと、なにやら難しい顔で考えているようだった。
「……どうした?」
「……なんて答えたらトンプソンのイメージが崩れないか考えてるの」
「……ヒイラギ」
「なに?」
「さっきの質問無しにしていいか?」
「うん」
ありがとう。
なんというか、トンプソンはそういうひとらしかった。
「ハイドはカメラだけでやっているの?」
「最近はね……本当ここ半年の話だけど。それまではちょこちょこバイトしてたよ。まあアシスタントがほとんどだったけど。仲間何人かと個展を開いて、そこにたまたま来てたスミスから推薦をもらった」
「スミス……ああ、香水の」
少女が言ったのはとあるブランドの香水の広告だった。スミスが手がけたものだ。うなずいて肯定する。
「彼の写真もいいね。俺は好きだよ。トンプソン程ではないけど」
トンプソンもまた有名な写真家だ。だった、というのが正しいのかもしれないが。
ここ十年近く、なにも発表はしていない。が、未だに彼の撮った写真はあちこちで使われている。
そのトンプソンの秘蔵っ子とも言える少女―――興味が湧かないわけがなかった。
「日本で仕事をする前はなにをしてたんだ?」
「大学生をしてたよ。卒業して半年くらい照明機材レンタル屋で働いて、そのあとフリーランスになって映画の世界に入った」
「ふうん……その前は?」
「普通……。……。学生してたよ。小中高と」
それは至って普通だろうと思ったが、本人が『普通』のところで若干首を横に傾げていたのでもしかしたらあまり『普通』の学生生活は送っていなかったのかもしれないな、と思った。
「ハイドは?」
「俺? 俺はまあ、途中で親父が死んだり孤児院行ったり里親の元に行ったりと移動ばっかしてたけど、一応小中高行って大学も出てるぜ。一時は商社にも入ってた」
「へえ」
「ただまあ、あちこち点々としてたし、生い立ち言うと『普通』ではないってよく言われるけどな」
「そう」
短いがきちんとした答え。ざらり、と、ワークブーツの分厚い靴底が荒野の砂を踏み締める。
少女の歩調は不安になるものではなかった。興味深そうになにもない荒野を何度も何度もぐるりと見渡し、時折シャッターを切る。
「ヒイラギはひとに興味がないのか?」
「どうして?」
「俺の生い立ちを聞くと大抵の人間は『それは気の毒だった』とか『辛かったね』とか言うんだ」
「……あなた、気の毒なの?」
きょとんとしたように、薄黒色の奥の眼が瞬く。ゴーグルのレンズは偏光レンズだったようだった。
どきりとした。意味もなく焦り、目を逸らした。
「……さあ」
「そう」
「お前、おかしな奴だな」
「そう?」
「お前みたいに考えることが出来たら俺もよかったんだけど」
「やめておいた方がいいよ」
くすりとヒイラギは笑った。それははじめて見るやわらかい笑みだった。
「ろくなことにならない」
不思議と、会話はそれ以上続かなかった。




