もういいかい? 泣かない君 22
部屋はとても煙臭かった。
当たり前だ。
「……七南」
「……はい」
「私、ちょっと、嫌気がさした」
「……うん。ごめんなさい」
というわけで、窓という窓を開け放っていたのだがそれはやめて―――換気扇を強で回し、ベッドやら布類に大量の消臭ミストを振りかけ二人で部屋をあとにした。―――銭湯に行く。
温泉ではない。が、まだ出来て新しく、日替わりでいろんなお湯を楽しめるのが売りのようだった。因みに今日はミルク風呂らしい。
なんというか―――煙の匂いが残る部屋にいるよりかは、断然に健康的だ。
部屋の浴室は今、半分ほど水が溜められたまま放置されている。部屋のあちこちにも鍋やコップにお酢を入れ置いて来た。お酢が少しでも匂いを取ってくれればいいという願望だ。
「……お姉ちゃん、胸あるよね」
「いや……普通だと思う」
「……あたしはその普通すらないんだよ」
深々と溜め息を吐かれた。なんというか……お互いがお互い、違う部分を見ていたんだなあと思いながらも服を脱ぎ、湯気の立ち込めるお風呂場へと足を運ぶ。隣の七南を気にしつつ洗い場に並んで座り、お互い複雑な顔のままで身体と頭を洗う。
「お姉ちゃんさあ」
無言で洗い、とりあえずまずメインからと乳白色の湯―――少しとろりとしたミルク風呂(入浴剤だろうけれど)に入ると、七南が口を開いた。
「……もう少し、自信持ってよ。……じゃなきゃあたしがかわいそうじゃん」
「……ん」
かわいそう―――だからでは、なく。
なんというか。
こういうこともあるのだなと、さっきから思っていた。
欲しいものが必ずしも自分のものとは、限らない。
「……例えばね。私が七南みたいにちゃんと相手に言いたいこと言える人間だったら、助けられたひとが……いるんだよ」
「……それは」
七南が口籠った。なんとなく、それがどんな状況の時なのかわかったらしい。
「……難しい問題、じゃん。……別に、お姉ちゃんが助けなくったって……」
「そうだね。でも私はどうにかしたかった。七南になら出来ただろうなあって、思ったよ」
「……」
少し、迷ったような顔をされた。促すように、視線を傾ける。
「……後悔してるの?」
「……うん」
「じゃあ……他の方法で、なんとかしたり」
「しようと、思った。けど、間違えた……やり方を間違えたの。……もうどうしようもない、かな」
「……そっか」
七南が、こちらを見た。
「で、どうするの?」
「話聞いてた?」
「え? うん」
当たり前のように七南がうなずく。
「そのどうしようもないことをどうするの?」
「だから……」
「お姉ちゃん、お姉ちゃんが思ってる以上に頑固だしあきらめが悪いよ。たかがどうにもならないくらいで終わらないでしょ」
「……」
「最後まで見守るとか。どうにもならなくても最後までどうにかしようとし続けるとか。……どうにもならないから逃げるとか、そんなことしないじゃん」
「……」
「そこもあたしと違うね。……あたしは、そこまで強くない」
七南の言う『強さ』と弥子の言う『強さ』は違うのかもしれない。
けど、どこが違うのだろうか。―――そんなことやめてと、天音を害する者たちに言えなかった弥子の弱さ。きっと言えたであろう七南の強さ。
どうにもならないことを直視し続けられる弥子の強さ。どうにもならないことを直視し続けられない七南の弱さ。
今だから思う。今こうやって、七南と言葉を交わしたからこそ思う。―――弱い。それって、そんなに、悪いことか?
「……私ね」
「うん」
「……これから大変なことをしなくちゃいけないと思う」
「そっか」
「うん」
「うん」
なんでもないような、七南の声。
「じゃあ、それが全部終わったらまた買い物行こう」
「……いいね」
「うん。お金があったら、ケーキは私が買うよ。お姉ちゃんはコーヒー買って。トールサイズでホイップクリームトッピングしてほしい」
「はいはい」
―――結局のところ、七南はやさしい。
ふんわりいい匂いを纏って、レンタルの室内着も纏い、二人で牛乳を飲んだ。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
「こっち向いて笑って」
七南が掲げたスマホのディスプレイに自分たちが写っていた。条件反射でなんとなくピースする。かしゃっ、という軽い電子音。
「ネットにはあげないでね」
「あげない」
「ありがとう」
「けどお母さんに送る」
「……お父さんにも送ったげな」
「んーじゃあ家族グループの方に送る」
「うん」
離れた土地に娘たちを送り出した両親。あなたの娘たちは散々揉めて小火騒ぎ起こしたあと銭湯でゆっくりのんびりして牛乳を飲んでいます。勉強もしてるんであたたかい目で見てやってください。
「お父さんもお母さんもさあ、あたしが東京の大学行くの許してくれたのって、お姉ちゃんが先に上京してたからだよ」
「え、そうなの?」
「そうだよ。もうすごい揉めたんだから。七南はすぐさぼるから上京なんかしたら遊び惚けてもう目も当てられないって」
「へ、へえ」
「お姉ちゃんの時はあっさり許した癖に。まあ普段の行いなんだろうけど」
確かにそこまでは揉めなかった。娘を一人暮らしさせるのに父親はなんだか複雑そうな顔をしたが反対はされなかったし(注意点はたくさん言われたが)母も頑張りなさいとあたたかく送り出してくれた。七南が反対されたのは……まあ、確かに、普段の行いなのかもしれない。
「料理さ」
「……うん」
「無理せず少しずつやっていこうか。彼氏出来たら料理作ってあげたりとか出来るよ」
「……うん」
小さくこくりと子供のようにうなずく七南を見て、笑った。
―――自然に笑うことが、出来た。




