もういいかい? 泣かない君
立岡 弥子は深呼吸をした。どくどくと自分の心臓が跳ね上がっているのが分かる―――こんなに緊張したのは、中学の合唱祭で伴奏を無理矢理押し付けられた時以来だと、自分の中で変に冷静な一部のタチオカ ヤコが判断する。
自然、閉じていた目を開ける。チャイムが鳴り、がやがやと生徒が出て来た波の中で―――いた! はっと息を飲んで、生まれてからずっと苦手としていた人波に飛び込み、その背中を必死に追いかける。避けきれずぶつかったひとたちには舌打ちされたり苦い顔をされたりしたが今日ばかりは気にならず、ただその背中に追い付くことだけを考える。
「か―――蕪木、先輩っ」
追いすがろうとして叫んだ声は情けなくひっくり返り、見事な裏声になった。スタートからしてしくじった、と顔に血がのぼるのを感じていると、前を歩く青年が振り返り、こちらに視線を落とした。
すらりとした長身痩躯。それでもきちんと筋肉は付いていて、貧相という印象は受けない。鴉の濡れ羽色の艶のある髪に、吸い込まれそうなくらい真っ黒な目。そこらの女の子よりきれいな肌は色白。肌はともかく目と髪は日本人らしい色合いなのにどうしてもどこか異国的な雰囲気を感じてしまうのは、そのどこか掴み所のない空気感―――だけでなく、彼の顔だった。
整っている。―――恐ろしい程に。
学部の中で『男も見惚れる男』がいるというのは、それこそ弥子が入学した時からの噂だったが―――はじめて近くでその顔を見た時、これは見惚れるではなく呑まれるの間違いなのだ、ということに気付いた。
残酷な程に美しい。
異質な程に現実味がない。
そんな異次元の存在感である青年―――一つ上の先輩、蕪木 灯はその形のいい唇を薄く開き、
「なに?」
冷たくもあたたかくもない、けれどやわらかいテノールで答えた。
声が詰まる。心が怯える―――なにやってるの、ここまで、ここまで来たのだから。
―――来て、しまったのだから。
「―――蕪木、先輩。私と、お付き合いしてください」
祈るような時間。
そして。
「わかった」
何でもないことのように、軽く、蕪木は言った。
「俺と付き合おうか、立岡さん」
―――それが、蕪木灯と立岡弥子のはじまりだった。