もういいかい? 泣かない君 17
鶴野天音が、昼休み図書室でなにをしているのか、残念なことに立岡弥子は知っていた。
ろくに本を読む生徒がいない―――いや、いたのかもしれない。いたのだ。きっと。が、極端に、少なかった。どうしてか。……本を読むことが、まるで、恥ずかしいことのように。自分は生きている人間と上手く折り合えないからここにいるのだと、そう取られてしまうと決め付けられているように。
なんにせよ、図書室はしんと静まり返っていた。司書の先生が事務作業をやる微かな物音が時たま、聴覚に入る。
その司書からも死角になる、一番奥のスペース。
哲学書のコーナーだった。ひとは何故生き、そして何処へ行くのか―――生きている人間が必死に考え、そして結局、自分なりの答えしか導き出せずにいる永遠のテーマを綴ったものが集う場所。……一冊だけ、どうしてそこにあるのかわからない小説があった。
ほとんどの人間はそれに気付かないだろう。夥しい数のタイトルの中、その違和感に、誰も気付かない。哲学書の中に紛れ込んだ一冊の小説に、ほとんどの人間が誰も気付かない。
それでも、鶴野天音は気付いた。気付いて―――そこに挟まっていた封筒に、眼を落とす。
『 後輩へ 』
そうひとことだけ書かれた、封筒に。
「私は……私は昔、天音ちゃんを酷く傷付けました」
『後輩』へ。……そう書かれた手紙。そう書いた、人物。
その中身にあっただろう文章のどれに天音が惹かれたのかは、知らない。が、結果は知っている。天音はその『先輩』と文通をはじめた。
「図書室にある本の一冊に、手紙を挟んで……それをポスト代わりに天音ちゃんは文通をはじめました。それが、天音ちゃんにとって唯一の学校での楽しみだった」
どんな気持ちを交わしたのか。どんな言葉を交わしたのか。
弥子がそれについて考える資格なんて、ない。
「……私は、天音ちゃんが文通していることを知っていました。……私もよく、図書室にいたんです。天音ちゃんが本から封筒を取り出すところを、見たことがあったんです。……それで」
唇が乾く。間違えないように、賢明に言葉を選んだ。
「私は……天音ちゃんに憧れてた。きれいで、かわいくて……天音ちゃんが誰と文通しているのか気になったし、天音ちゃんがなにをそのひとに書いているのか気になった。……気になって、しかたなかった。……ずるいですよね。同じクラスで、天音ちゃんがいじめられているのを知っていたのに。なにも、出来なかったのに……それでも一丁前に気になって、我慢出来なくて、天音ちゃんが手紙をその本に挟んで立ち去ったあと、私は―――」
その手紙を。
「……天音ちゃんが、たまたま……たまたま、なにかの用事を思い出したのか図書室に戻って来たんです。そして、自分の挟んだ封筒を持つ私を見付けてしまった。……」
赤くなり、青くなり、そしてじわじわと―――また赤くなり。
涙を眼に溜めた天音が、声も出せない弥子に近寄り―――封筒を、ひったくる。
最低
涙で滲んだ、いろんな感情を詰め込んだ声が―――そう言った。
それは怒りだった。それは羞恥だった。それは悲しみだった。それは、嫌悪だった。
わたしは『先輩』に書いたの。―――あんたに読ませるために、書いたんじゃない
ごめんなさい、という言葉すら、音にならない。
許さない。絶対に許さない。―――他にあんたに上げる言葉なんて、なんにもないんだから
言って。
滲む涙が零れないように堪えて―――立ち去る彼女。―――自分が決定的に間違えてしまったのを、知った。
知った。―――遅かった。
「……好きにしてください。蕪木先輩。なんでもします」
口を挟まず、静かな面持ちで弥子の話を聞き続ける蕪木に、言葉を重ねてゆく。
「なんでもあげます。私のものなら、なんだって。……だからお願いです、私の願いを叶えてください」
完璧で完全で見たことのないレベルの青年。まるで―――御伽噺に出て来る王子様のような。
王子様。
完璧な王子様に、きれいな彼女。
「『先輩』になってください。蕪木先輩」
見上げる。なにも躊躇うことなく―――願う。
「今、私のPCに天音ちゃんからメールが届くようになっています。……『先輩』に宛てたメールです。私が手紙を盗み見ようとしてから、やりとりがメールになったんです。……事情があって、今、そのメールは私に来ています……そのことを天音ちゃんは知りません。だけど、私になにかが返せるわけないんです。私は『先輩』じゃない―――それどころか自分の面倒すらままならないなにも出来ない女なんです。私が代わりに返事を出すことなんて出来ない。なにか言える言葉があるわけじゃない」
「……その『先輩』はどうしたの」
「亡くなりました。……私が手紙を盗み見ようとしたあと、私、その『先輩』と図書室で会うことがあったんです。そのひとも、本の前で立ち止まっていて……一つ上の、男の先輩でした。私はそこで自己紹介して、手紙を盗み見ようとして見付かったことを話しました。そして、謝りました……だからその本に返事は挟まっていないのだと。……最初は、恨まれました。そして、約束しました。……自分のことと天音ちゃんに言わないと。先輩はご両親の都合で、転校することになっていて―――先輩は不安定な天音ちゃんをひとり置いていくことになります。それを、心配していた。二人は顔も名前も知らず、ただ文字だけで繋がっていたんです。『先輩』と『後輩』として。……この学校に、この狭い世界に、学年は違うけれど自分の味方がいる。……そのことは天音ちゃんを勇気付けているようでした。だからこそ、天音ちゃんは針の筵みたいな学校に毎日来れてるんだって。……先輩がこの学校から去ることを、秘密にすること。そして、学校であった学年共通のことや、その日の天気や……日常のことを、毎日自分にメールすること。……それと引き換えに、許してもらえたんです。……私は続けました。それから、毎日」
一度言葉を切る。蕪木は、なにも表情を変えていなかった。
「天音ちゃんの中では―――顔も名前も知らないまま『先輩』は中学を卒業して、近くの高校に入学したんです。天音ちゃんもそれを追いかけるようにしてその高校に入学しました。……どんな偶然か知りませんが、私も、同じ高校になった……天音ちゃんは信じてるんです。……自分が『先輩』と同じ高校に通ったって。どれだけ世界が狭くても、その世界に馴染めなくても―――自分を理解してくれる『先輩』が同じ学校にいたって、信じているんです」
お願いします。……声が、擦れた。
「私には出来ない。……『先輩』は―――天音ちゃんを、守ろうとしていた。……実際は転校先で、天音ちゃんとは違う高校に入学して、卒業したんです。私たちは協力して、天音ちゃんを騙していた……でも、それもおしまいです。……三週間前、先輩は……事故で亡くなりました」
「……」
「天音ちゃんは知りません……先輩は、『もしなにかあった時のために』って言って、随分前に私に手紙をくれました。……それを開けたら、中にはアドレスと……それにログインするパスワードが書いてありました。……天音ちゃんとやり取りしているアドレスです。過去のメールも、全て読める。……でも」
でも。
「……私には、無理です……例え過去のメールのやり取り全部を読んだとしても、私は『先輩』じゃない……私は『先輩』になれない……なんにも、言えるわけがないんです。
……天音ちゃんは、『先輩に会ってみたい』って、メールして来ました。……先輩。ねえ、蕪木先輩」
眼を逸らさず。真っ直ぐに、見上げた。
「天音ちゃんの『先輩』になってください。……蕪木先輩のやさしいさは、『先輩』に似ています。……メールを読んで……『先輩』になって、天音ちゃんに会ってください。天音ちゃんを、支えてください。……とっても、やさしいです。強くて、やさしい子です。……蕪木先輩もきっと好きになる。天音ちゃんだって、目の前にやっと現れた『先輩』が蕪木先輩なら、きっとよろこぶ。思っていた通りのひとだって」
嘘だ。詐欺だ。―――じゃあ、本当って?
本当のことを、全部言う? ―――どうして?
全て整えられるきれいで美しくやさしい『嘘』が眼の前にあるのに―――どうして不恰好で醜くて惨い『本当』が必要になる?
唯一困るのは、蕪木だ。けれど、蕪木だってきっと天音を好きになる。
きれいでかわいくてやさしくて強い、けれどとても繊細な女の子。
嫉妬で疎外されるほど素敵な女の子。
「私を全部、あげます。……私の願いを、叶えてください」
時間はかかるかもしれない。―――でもきっと、きっと好きになる。
「―――本当に」
やさしい声。
蕪木灯が―――微笑った。
「本当に好きだったら、交換条件なんかじゃなく叶えてあげたくなる。自分の持つ全ての力を使って、形振り構わず全力で叶えたくなる」
やさしい声が―――降って来るように。
「立岡さんと俺の価値観は違う。……ねえ、立岡さん」
別れよう。―――蕪木灯はそう言った。
やさしい顔。
やさしい微笑み。
やさしいひとを、幻滅させた。