もういいかい? 泣かない君 12
七南が蕪木に会ったのは、本当偶然だった。
珍しいことに休日家にいた七南が、なんの気が向いたのか買い物について来たのだ。スーパーに寄り必要なものを買って(七南がなにやら入れてくるのをなるべく阻止して)出て、そういえば今の時間なら近くのパン屋が焼き立ての時間かなとふと思い立ち、早く帰ろうよとぶうたれる七南を引き連れそのパン屋に立ち寄る。町のパン屋さんという古き良き雰囲気のパン屋で、味はおいしい。
小腹が減ったし、ちょっと甘い系のパンが焼き立てだといいな。そう考えながらドアベルを鳴らした、その先に。
「立岡さん」
「……蕪木、先輩」
蕪木 灯がそこにいた。なんでここに、と驚いていると蕪木が弥子の隣に会釈する。
「こんにちは。立岡さんの妹さんかな。俺は立岡さんと同じ大学の蕪木と言います」
「はじめましてこんにちはっ、七南ですっ。姉がいつもお世話になってます!」
オクターブ高い声が隣からしてぎょっとした。きゃぴっとした声と笑顔で蕪木に挨拶した七南を見て、ぶれないなと呆れを通り越して感心する。
「立岡さんもパンを買いに来たの?」
「あたしが連れて来たんですっ。ここのパン、すっごくおいしいですよね!」
そういうことになった。最早突っ込む気にもならない。
「……蕪木先輩、パンを買いにここまで?」
「うん。たまにね。―――ここの食パン、キョウが好きなんだ。今日はクリームシチューだから。ここのパンと一緒に食べるのあいつ好きで」
「ああ、今日は一緒の日なんですね」
蕪木と京子は毎日ああやって夕飯を一緒に食べるわけではないらしい。
その貴重な夕飯の時を少しでもいいものにしようという気持ちが蕪木にはあるのだろう。弥子の複雑な心境はさて置いて、本当に京子のことをかわいがっているんだなあと素直に感心する。
「じゃあね、立岡さん。妹さんも。……また大学で」
言って、蕪木は出て行った。からんからん、と、ベルが鳴る。
「……びっくりしたー。お姉ちゃんの先輩なの? 今のひと。芸能人とかじゃなく」
「う、うん。私もここで会うとは思わなかった」
「すごいひとだね。芸能人、っていうか……むしろ人間じゃないみたい。想像上のひとみたいっていうか」
「……そうだね」
想像上のひと。
そう。
そう、だ。
家に帰るまで七南はうるさかった。
家に帰ってからも七南はうるさかった。
内容は同じだ。さっきから同じことを繰り返している。
「あんなイケメンっていうか次元の違うひとがいるならなんでもっと早く教えないの!」だ。
ぎゃあぎゃあうるさい七南の話を九割九分九厘聞き流して、買った甘いパン(シュガーパン)を食べ終わり―――「あのさ」と遮るように声をかける。
「なあに」
話を遮られたのが嫌だったのかぶすっとして七南が言う。
「あたしの話よりも大事な話?」
「髪をね、切りたいんだけど」
「切ってくればいーじゃん。明日日曜だよ? お姉ちゃんの行く安くて年齢層の高いあの店なら予約なんかなくったってガラガラでしょ」
酷い言い草だ。
「七南の行くお店はやっぱり飛び込みじゃ難しい?」
「は?」
明日宇宙人が鯖をおすそ分けしてくれるから受け取ってくれない? と言われてもそこまで素っ頓狂な返事をしないだろうというくらい、七南はおかしな声を上げた。
「……え、あたしの行く美容室? そりゃ、飛び込みじゃちょっと……運が良ければ今からでも予約取れるだろう、けど」
「そっか。ねえ、試しに電話してみてくれない?」
「え、お姉ちゃんがそこに行くの?」
「駄目かな」
首を傾げて問うと、七南は瞬きもせずこちらを見て―――恐る恐る、言葉を続ける。
「えっと、駄目じゃないけど……大丈夫? お姉ちゃんの苦手な今時のひとばっかがお客さんだし、カラーとパーマをするような美容室だよ? わかってる? 大丈夫? 初対面の美容師さんと話せるの?」
「……なんとかなるでしょ」
「……お、姉ちゃんがそこまで言う、なら」
どこか呆然としたまま、七南は電話をかけてくれた。
時間は午前だが、ラッキーなことに空いていたらしい。そこに予約を入れてもらう。
―――ラッキーは、七南がそれから妙に静かになってしまったことなのかもしれないが。