セイリオスの逃亡 8
オーリ・キサラギが自分たちに遺したもの。
スコット夫妻に―――家。
アマンダに、キサラギ氏がリザに贈ったという真珠の髪飾り。
ディアムに、希少価値のある切手。
オリヴァーに、希少価値のある硬貨。
それはオーリ自身が『受け継いだ』物であり、決してオーリ自身が『使っていた』由縁のある物では、なかった。
それじゃあ、少女には?
少女のあの小さな手の上には、果たして何が遺ったのだろうか?
ゆるくブレーキを踏んでスピードを落とし、なるべくなめらかに車を停めた。
森のそばに建つ一軒の家。清澄した世界にぽつんと建つ―――霧の中の夢のような家。
窓ごしにじっとその家を見上げる―――少女。
「……」
少女が最後にここに来たのは―――オーリがまだ、生きている時。
黙ったまま。
少女は車を下りた。
キサラギの家は、モーリーンとアマンダが頻繁に空気を入れ替えて掃除をしているおかげで綺麗に整っていた―――少なくても埃が積もったりなどはしていない。
けれども、どうしてだろう。家主を失った家はその瞬間から動きを止めたように、一ミリも動くまいと決めてしまったかのように空気を匂いをその存在を滲むように感じさせて来る。
リザが、オーリが息を引き取ったのが―――この家、だからだろうか。
「……」
そっと、少女がその小さな手で、……愛しむように、ソファーを撫でた。
見てはいけないものを見てしまった気がして、曖昧に視線を逸らす。
「アマンダが」
「え?」
「アマンダが、鍵をくれたんだ」
「……」
「自由にしていいって」
「……スコット家が、今はこの家の持ち主だから」
ぎこちなくならないよう、言葉を絞る。
「決定権はスコット家にある。……アマンダがくれたのなら、それはスコット家の総意ということだろう」
「そっか」
短い、返事。
けれど決して、冷たくもそっけなくもない返事。
「……カーター」
「ああ」
「わたし、二階に行ってる」
「……着いて行くか?」
「や、」
声は中途半端に途切れた。
深い深い色をした眼が―――はじめて、ぎこちなく逸らされた。
「……悪いけど、ちょっとひとりに……」
……小さく息を飲んだのは、果たしてどちらだろう?
「……何かあったら、呼んでくれ」
何も気付かない、ふりをして。
そっとドアを開けて、外に出た。
―――訊けるわけがないだろうというのが、昨晩、三人が三人、口にも言葉にもせず出した結論だった。
傷付いて、傷付いて―――苦しんで苦しんで、漸くここまで逃亡して来た少女。
逃げて来た少女。
どうしてまだ立てているのかが不思議なくらいだと、ディアムは言っていた。
『形振り構わず泣いてよかったんだ』
もどかしむように、ディアムもまた、苦しむように。
『ただの女の子だ。形振り構わず泣いて、その時点ですべてから眼を逸らして逃げ出してよかったんだ。そうすることで心の整理をつけるはずだったんだ。……でも、それが出来なかった。それは、あいつが悪いわけじゃない。タイミングが悪かっただけで。―――でも』
その時『逃げる』という選択肢を取れなかったミユキが滅茶苦茶なんだとディアムは続けた。
『あの子の一番悪くてあの子の一番危ういところだよ。自分がどうしようもない時に、何よりも自分を優先させなければ、守らなければならなかった時に―――あの子は他人を選んだ』
他人を救うことを、選んだ。
『ただの女の子なんだ。―――どうしてそんなことが出来るんだ』
血を吐くような―――激痛のような、訴えだった。
「……」
―――あの時壊れてもおかしくなかった心をずっと抱えて何年も過ごして来た。
それはあと一瞬時が進めば爆発してしまう爆弾にも似ていた。
―――あとひとつ、ひとつ、何かがあったら。起こったら。
―――今度こそ、少女は壊れてもう二度と、どこにも戻れなくなる。
「……」
そんな少女をマリアと会わせたくは、なかった。……何を遺されたかなんて、訊きたくはなかった。
運転席でうな垂れて、だらりと力を抜いた。
「……オーリ」
無意識の内に、名前を呼んだ。昨晩家に帰ってからほとんど眠れなかったはずなのに―――睡魔は微塵も、やって来ない。
「……」
スコット夫妻に家を遺したのは、オーリがというよりもキサラギ一家全員の願いでもあったのだろうと思う。残すにしても、守るにしても―――その判断をスコット夫妻に委ねたかったのだろうと、思う。
だから家を遺されたのは納得が出来る。それが一番自然な形だった。
例外は、アマンダだろうか―――あの髪飾りはキサラギ氏が記念日にリザに贈ったもので、リザはよくあの髪飾りをしていた。それを棺に入れなかったのは、『もしもの時に』と遺されていたリザの遺言状にオーリが従ったからだが―――それをアマンダに遺したのは、アマンダならこれを手放さず大切に愛しんでくれるからだろうと思ったからだろう。アマンダはキサラギの祖父母に本当によく懐いていたから。
オリヴァーとディアムに遺されたのはキサラギ氏の遺産だ。彼がコレクションしていたものの、ほんの一部。……キサラギ氏はそういった価値のあるコレクションを全人類のものだという認識をしていた。そう語っていたのを覚えている。時と共に愛でる人間が違うだけなのだと。時間をずらし、シェアしているのだと。
だからオーリも、コレクション自体にそこまでの思い入れはないのだろう。だから殆どを売って金に変え、リザに遺そうとした……自分がいなくなったあとのリザの生活が、万が一にも困らないように。
けれどリザはオーリが亡くなる前に亡くなってしまった。……だからその金の殆どは慈善団体などに寄付された。
切手とコインを受け継いだディアムとオリヴァーに対しては、きっと手元に残しておいても手放しても、どちらでもいいという考えだったのだろうと思う。何か困った時や人生を変える時の資金に出来るだろうからこれにしようと、そんな風に決めたのだろう。
少女には―――少女、には?
「……」
そこに行き着く。……行き着いて、しまう。
訊いたら答えてくれるだろうか―――(誰が訊くんだよ?)
訊いたら答えてくれるだろうか―――(どんな貌をするだろう?)
訊いたら答えてくれるだろうか―――(どんな言葉を、吐くだろう?)
少女とオーリ。
オーリと少女。
白い霧の、あの早朝。
永遠のように感じた―――あの時間。
「……」
オーリ。
「……どうして……」
どうして死んでしまったのだろう、と。
何度考えても答えが出ない問いが、鏡のように凪いだ心にまた浮んで―――
「……オリヴァー?」
窓の外から、声をかけられて。
はっとして、突っ伏していたハンドルから顔を上げた。
車の外、すぐ横に立つ―――くすんだブロンドの髪の女。
「……マリ、ア……」
「……偶然ね」
あなたもオーリの家に? ―――変わらない薄い笑みに、少女のことだけを、思った。