もういいかい? 泣かない君 9
夕飯まで蕪木はご馳走してくれた。固辞したのだが「だってもう作りはじめちゃってるし」の言葉には逆らえなかった。それから続ける。「都合悪い?」……悪くないです。いや、ある意味悪いけど。
七南はどうせ遅いだろう。連絡がないから知らないが。だとしたら弥子がどこで夕飯を摂ろうが弥子の自由だ。
言い聞かせて―――恐る恐るではあったが、ご馳走になることにする。なにか手伝えることは、と訊くと、蕪木は小さく京子を示した。
「よかったらさ、勉強教えてやってくれない?」
「え、勉強ですか?」
「うん、今度受験生なんだ」
「……私で大丈夫ですかね……」
不安しかなかったが、京子から借りた問題集に目を通すと、幸いなことに弥子でもなんとかなりそうな感じだった。……教え方が上手いかどうかは別の話だ。
「えっと……京子ちゃん、わからないところがあったら言ってもらえるかな?」
「はい、ありがとうございます」
にこりと京子が微笑みシャーペンを取る。いや、こちらがお礼を言う方が正しい気がするのだけれど。……かりかりと問題に取り組みはじめた京子を最初は見るともなしに見ていたのだが―――次第に、気付くことがあった。
ものすごい集中力だ。長い睫毛が瞬きし、手は動き続ける。たまに考えるように休み、音もなくページにシャーペンのペン先を何度か付けて―――そしてまた手を動かす。
必死に。本当に必死に、勉強している姿がそこにはあった。
「……」
自分も大学受験の時は必死だったし、本気で勉強していた。
けれど、こんなにも鬼気迫るほど、真剣だっただろうか―――その時ふと、京子の横に置いてある他の問題集が目に入った。
(……)
提出することもあるのだろう。氏名を書く欄。
『古見 京子』
―――フルミ キョウコ
「―――そろそろ出来るぞ」
降って来た蕪木の声にはっとした。ばっと振り返り、蕪木と目が合って……蕪木が、きょとんとした目で弥子を見る。
「どうしたの? 立岡さん」
「……あ……い、いえ」
「驚かせちゃったかな」
「や、違います、ごめんなさい。……あっ、もうすぐ出来るんですね」
時計に目をやる。何だかんだで一時間と少し経っていた。気付かなかった。
京子は―――振り返って少女を見て驚く。全くなにも耳に入っていないようだった。問題集に目を落とし、手を動かし続けている。本当にすごい集中力だ。
吞まれて、声をかけることが出来なかった。蕪木が特に驚きも吞まれもせず歩み寄り、ぽん、と軽く少女の肩に手を置く。
「キョウ」
はっと、我に返ったように少女が顔を上げた。一度瞬きして、それから「あ」という顔をする。
「あ、ごめん、あれ?」
「もうそろそろ出来るから。キリのいいところで一度中断して」
「あ、そんな時間? はあい」
ダイニングテーブルで京子は勉強していたのだ。片付けなければ夕食が食べれない。京子が片付けはじめるのを手伝いながら、頭の中であの署名が泳ぐ。
古見 京子
―――蕪木 灯?
頭の中が疑問符で満ちていた。けれど―――けれどそれを訊くのは、今じゃないとも思った。
蕪木の手料理を三人で囲み(……あの怖い方々が知ったらなんて言うだろうか、とつい考えかけてやめた)、舌鼓を打って……いや、本当においしかった。薄く切った肉を湯葉で巻いた料理とか、茄子の山椒焼きとか。山菜の炊き込みご飯にお味噌汁はアサリのお味噌汁でこれはシンプルにほうれん草のおひたしとか。なんですかこのお料理上手。
「おいしい!」とにこにこ京子が料理を食べるのを蕪木はやはり満足そうに見ていた。弥子の方にも目を向けてくれる。
「立岡さん、お味はどう?」
「すっごくおいしいです!」
「ありがとう」
「蕪木の料理もいつもおいしい!」
本当にうれしそうに京子が言う。ただでさえかわいい女の子がきらきらの笑顔を浮かべながらご飯を食べている。心があたたまる。
食事を取り終えて、食後のお茶も落ち着き、そこで九時前となった。慣れた動作で京子がてきぱきと鞄に教科書などを詰め、脱いでいたブレザーを着る。
「行こう。千種さんももうすぐ駅着くだろ」
「うん」
「立岡さん、電車?」
「あ、バスです。駅の反対側からたぶん出てるはずなんですけど」
先ほど調べておいたのですぐ言葉は出て来た。蕪木がうなずく。
「送ってく。行こうか」