魔法使いじゃない
「私は魔法使いではないと何度も言っているだろう」
人はいつもジルのことを魔法使い扱いをして、気味の悪そうな目で見ている。実際ジルは魔法のことを研究しているが、使えるわけではない。
薄暗い塔の中で農学を学ぶ人間を農夫と呼ばないように、ジルは魔法の成り立ちやその術式を研究しているだけで実際使ったことはない。
使えるのかどうかもわからない。
昔々、世界は魔法使いが支配していた。
ごく一部の魔法使いの血筋の人間だけが権力を握り、この世の春を謳歌していた。そんな彼らがその座を追われ、普通の人間達が穏やかな生活を送れるようになったのは、今から五百年くらい前のことだ。
騎士や平民が力を合わせ、邪悪な魔法使いの帝国を倒したということになっている。それから今に至るまで、魔法使いが歴史の表舞台に出てきたことはない。
ジルはそんな過去の魔法使い達に思いを馳せながら、彼らの世界を紐解いていくことに無上の喜びを感じていた。
魔法使い達は一体何処へいったのか?
魔法が使えるか使えないかはその血に魔法使いの血脈が流れているのかで決まった。魔法使い達が権力を失った当初は迫害され、殺害されたりもしていた。
しかし、長い歴史の中で純血を競っていた彼らも普通の人達と通婚し、その血は水のように薄まり今では魔法を使える者など皆無に等しかった。
極まれに先祖がえりの者が生まれるが、魔法使いの能力があるとわかると神殿から迎えが来て何処かへ連れて行かれる。
彼らが神殿でどのような目にあうのかだれも知らない。
ジルは神殿に連れて行かれたわけでもない。神殿から見れば魔法使いではないということになる。ただ彼の血筋が周りを疑心暗鬼にさせていた。ジルはその昔魔法使いの帝国で皇帝を輩出するほどの名家の生まれだ。ただ一般の魔法使い達と異なり、ジルの家は騎士や平民とかなり早い段階で通婚を繰り返していた。帝国の末期には魔法使いの力もかなり弱まっており、それが幸いして帝国崩壊後の世界でも迫害されることなく領地を全うできている。
力はないが歴史はある。ジルの育った館には過去の魔法使い達の残滓があちこちに残っていた。先祖の残した数々の書物に、蔵で埃をかぶる不思議な道具に魅せられて、彼は魔法学とも言うべき学問の研究を重ねていた。
もちろんジルも初めて魔術書を見つけたときは、好奇心に胸を膨らませその術を展開しようとしてみた。しかし、それは不発に終わり、あろうことか割れんばかりに頭が痛くなった。あまりの頭の痛さに床を転げまわったのは六歳の時だ。それ以来術を試そうと思ったことはない。使ってみようという気はなくなったが、魔法の成り立ちや術の仕組みについての興味が失せたわけではなかった。以前にもまして研究に没頭し、使用人や領民達に薄気味悪がられている。
「ジルディオ様、大公閣下がお呼びです」
朝から帝国最盛期の歴史書に没頭していたジルを現実に引き戻した侍女は不機嫌だった。
彼女はせっかく領主の館での働き口を見つけたのに、ジルのような変人の担当になったことをいつも嘆いていた。
「あの人のことだ。別に急ぎではないのだろう? この章を読み終わったら行くよ」
この館の中で太陽のように輝いている大公閣下を無下に扱うことができるのは、魔法使いもどきの主人だけだ。
これが大公を崇拝し、あまつさえ機会があれば一夜のお情け、更に言えば玉の輿を狙っていた侍女には面白くない。
その思いが態度ににじみ出ているのだが、ジルは意に介するようでもない。そこがまた侍女をイライラさせるのだ。
「広間のほうへお呼びです。急いでください」
広間というのはすなわち私的なことではなく大公国の政務に関しての呼び出しだということになる。
ジルはまだ17歳であり、この国で言う成人まであと一年ある。
「ますます持って私には関係ないことだろう。政治は閣下のお仕事だ。私はこれを読んでから行く」
大公の政務を手伝う義務はないが、成人と言っても上流階級の話であり、下々の者はジルより幼くても働いている。
いつも周囲はジルに暗に大公の政務を手伝うことを求めてくる。
こういうやりとりを過去何度繰り返してきただろう。
怪しげなものに没頭し、輝ける大公閣下のお召しも面倒くさいとばかりに無視しようとする。自分だったら全てを放り投げ、喜び勇んで閣下の元に馳せ参じるのに……。
侍女の顔にはありありとその感情が浮き出ていた。
「いい加減にしてください。侍従長にしかられるのは私なんですよ。あぁ、もうどうして私は魔法使いなんかに仕えなきゃいけないんでしょう」
侍女はいつも本音を洩らす。そしてその本音が洩れるとジルは言うのだ。
「私は魔法使いではないと何度も言っているだろう」
「ジルディオまいりました。何の御用でしょうか?」
呼び出された場所は館の中で一番広い。領主の館で一番広いということはこのクルクニ国で一番大きな部屋だということになる。
小国であるため他国のものと比べると多少手狭かもしれないが、高い天井には贅を尽くしたシャンデリアが輝き、壁には歴代の当主達の偉業が描かれている。調度品の数々も、小さな燭台の意匠にまで職人の魂がこもった凝った造りになっていた。
この国で一番格式のある場所で、普通の人間であれば、ここに呼び出されることは最高の栄誉であり、心高鳴り緊張するのであろう。
しかし、この館で育ったジルにとっては幼い日にさんざんいたずらを尽くした場所に過ぎなかった。
財務長官が座る蔦の巻きつく彫刻がされた椅子の裏に「ハゲ」の張り紙を貼ったのは懐かしい思い出だ。
広間には大公をはじめ、財務長官ら行政官と騎士団の上役達がそろっていた。
ジルは大公家の血を引く人間として求められている義務を無視して、日々役に立たない魔法学の研究に明け暮れている。
お歴々からまたそれをなじられるのかと思うと気が重い。
大公は太陽のように輝かしい。
クルクニの太陽公と呼ばれる男は、豪奢な金色の髪と深い青い瞳をしていた。整った顔立ちに騎士団に見劣りしない均整の取れた体つき、剣も扱え公正な領主としての評判も高い。笑えば口元から歯がキラリと輝きそうな美青年だ。
そんな太陽公の現在一番近い血縁者がジルだ。
太陽公はジルの母の弟、つまりはジルの叔父になる。こんなに近い血縁のはずなのに、大公とジルの共通点は深い青い瞳くらいしかない。太陽の下でやっと茶色に輝くボサボサの黒い髪に、剣など振り回すことができないような細い体。
大公が太陽ならジルはか細い三日月だった。
「ジルディオ・カラクィンに命じる。ラーナ・プラヴァを訪れ彼女をこのクルクニへ連れてまいれ」
朗々とした大公の声が高い天井に響く。
居並ぶ者たちはこのことをすでに知っていたのだろう皆落ち着いていた。一人ジルだけが驚きに目を丸くしている。
「ラーナ・プラヴァに会いに行ってもいいのですか?」
彼女はジルがここ数年会ってみたくてたまらない人物だった。
この魔法使いがいなくなった世界で唯一魔法使いと呼ばれる人物。彼女が本当に魔法使いなのかただのペテン師なのかはわからない。
ただ彼女に付随するおどろおどろしい話から推測するに、何らかの力を持つ人物には違いなかった。
「以前、彼女の元を訪ねたいと言ったときは、財務長官に旅費は出せないと反対されましたが、今回はいいんですか?」
八歳の子供がやったいたずらを財務長官がずっと根に持っていたのか、別の理由があったのかはわからない。大公を含めここにいる人々がジルが魔法使いに興味を持つことに否定的なのは確かだ。
「無論、ちゃんと旅費は出してやるし、護衛の者もつける。必ずプラヴァを連れてくるように」
飛び上がって喜んでもいいところだが、あまりに都合のいい話に何か嫌な予感もする。だがこの機会を逃せば魔法使いと接触することもままならないだろう。
「わかりました。必ずやラーナ・プラヴァを連れてまいります」
今までになく広間から退出するジルの足取りは軽かった。