第六条:実施に関する規定
「真島くん。放課後お暇でいらしあしゃ」
「なんだって?」
言葉が絡まっていた。
授業が全て終わり、荷物をまとめている僕の席まで来た大森さんは、顔を赤らめて手をさ迷わせている。その手を僕の机に乗せ、改めてゆっくりと口を開いた。
「放課後、お暇ですか?」
「まあ、暇と言えば暇だけど」
苦笑して答える。
部活に入ってはいるが、今日は活動日ではない。
大森さんは厳かに顎を引くと、机から手を離して堂々と胸を張った。
「では放課後デートと参りましょう」
「はぁ?」
デート?
うっかり開いた口を閉じる。
大森さんは会心の笑みを浮かべて、にやけた口から笑いをこぼした。
「ふっふふ。いえ、デートとは申しましたが、これも和やかなトークスキルの鍛練です」
ピンと人差し指を立てて、僕に見せる。
「人は学校で生きるにあらず、ゆえにお出かけしなければなりません。いかなるシーンにおいても、真島くんはナイスでラフな切り返しを会得しなければならないのです」
要するに、街に繰り出して冗談の練習をしようという話だ。
「実地演習ってやつかな」
「そゆことです。よろしいでしょうか?」
にま、と笑って大森さんは首を傾ける。
「一理あるね。分かった、付き合うよ」
鞄を肩に掛けて立ち上がる。大森さんは満足げに大きくうなずき、鞄を担ぎ直した。
「では参りましょう」
きびすを返そうとする大森さんの前に割り込み、膝を折って彼女の手を取る。
「どうぞ、お姫様」
手を引いて、大森さんに笑いかけた。
気障ぶった渾身のジョークに、大森さんはこらえきれないように顔をにやけさせて、顎をついと上げる。
「苦しゅうない」
なぜか和洋折衷だ。
軽く手を引いてエスコートするのは最初の二歩だけで、すぐに手をほどいて大森さんの鞄に手を差し出す。
「よければ持つよ」
「あは、ありがとうございます。では王子様に甘えさせていただきましょう」
大森さんは気恥ずかしそうに鞄を渡し、こそりと首をすくめて周囲に目を走らせる。
クラスメイトたちが見ないフリをしながら、川に落とす針の音を聞き分けんばかりに耳をそばだてて様子を窺っていた。
ははは、と笑う。
「やるんじゃなかった」
「台無しです」
大森さんはちょっとだけ拗ねたように唇を尖らせた。
とりあえず笑って誤魔化して、話題を逸らす。
「それで、回るにしてもどこに行くの?」
「とりあえず街に行きましょうか」
大森さんは迷う様子もなく、予想された答えを口にする。
学校帰りで気軽に行ける範囲の街というと、おおむね一つしかない。
大山田高校は、住宅街のなかに位置している。それは並大抵の住宅街ではなく、コンビにコンビニさえ探すのに苦労するほどの閑静な住宅街だ。
その隣街が、ちょっとした繁華街になっている。在校生が街という場合、基本的には最寄り駅からちょっと足を伸ばせば遊びに行ける距離にあるこの街を指している。
もちろん、学生時分に寄り道など好まれたことではないが、問題行動を起こさない限りは大した話でもない。遊びたい盛りを下手な形で取り締まるのは逆効果というものだ。
もっとも、街には大きな中央図書館や美術館などもあるため、過ごそうと思えば真面目に過ごすこともできる。……もちろん、そんな高校生はまずいない。
頭上には排気で汚れたアッシュグレイに断ち切られた、狭い青空が広がっている。
駅前通りは背の高いビルが密集して、薄汚いクレバスの底にいるような気分になる。その壁面に多い尽くされた色とりどりの看板は目にもけばけばしく、雑踏のにぎやかさと騒がしさを助長する。
日もまだ高い昼下がりにも関わらず、街は人で溢れていた。
日照と人通りで色あせたレンガ敷きの広い歩道を歩きながら、行き違う人々を眺める。どんなライフサイクル生活の末にここに集ってくるのか、他人事ながら興味を惹かれる。
それは僕の前を身軽そうに歩く女の子にしてもそうだ。ブレザー姿のまま、ふわふわと髪が弾むような襟首を目で追う。
大森さんはちらりと肩越しにこちらを振り返った。
「なにか行きたいところはありますか?」
「いや、ないよ」
「では映画にしましょう」
「なにを観るの?」
大森さんはくるりと全身で振り返った。作りのしっかりしたフレアスカートが、ゆるりと広がって彼女の動きに倣う。
彼女はにこりと笑って、両手に握る二枚の細長い紙を見せていた。映画のチケットだ。
「ちょうど、図書室でも特集をやっていましたね」
「なるほど。旬な映画ってやつだね」
大森さんは少し得意げに微笑んでいる。
あぁこっちです、と大森さんに先導されて大通りに沿って角を折れる。大通りをまたぐ高架広場を抜けていく。駅前に接続されているため、人の密度が一挙に増す。
縫うように進みながら、大森さんの隣を保ってやや大きく声を掛けた。
「それ、予約してたの?」
「はい。今日真島くんに予定が入っていたら、私はべそをかきながら寝転がって映画を見なければならないところでした」
「迷惑だからやめなさい。……っていうか、いくらだったの? 払うよ」
「いえ、お気遣いなく。牛乳プリン代以上に、私が奢る気はありませんよ」
財布を手繰る手を止めて、大森さんの言葉の意味を少し考える。
つまり、罰ゲームと称したプリン強請りを映画代で返す、ということだろうか。
大森さんの妙に嬉しそうな笑顔を見る。
「じゃあお相子、って感じ?」
「はい、そういう感じで」
ある種頭の悪い逡巡に、大森さんはあっさりと頷いてしまった。
一応こんなでもデートって呼んでたわけだし、そうならば女の子に財布を出させるな、みたいなことを聞いた気がするのだけど。しかし冷静に考えてみれば、別に僕と大森さんは交際してるわけでも、しようとしているわけでもない。デートと呼ぶにはイメージ的に曖昧なところがある。では提案には乗るほうがいいかもしれない。
高架を降りて大通りから逸れた裏手に入る。急速に寂れ、がらんと寂寥感の広がる駐車場がフェンスに隔離されている。
掲げていたチケットを下げて、大森さんは不満そうな顔で僕を見上げた。
「というか。真島くん、もうちょっとふざけてくださいよー。それじゃあほとんどマジレスと変わんないじゃないですか」
「そんな無茶な」
「例えばほら、映画観に行くんですよ」
畳んだ扇子で指し示すように、チケットで僕を示す。ネタ振りだ。
「え、えーと。助かるよ、昨日寝不足だったから」
「ひどいですね、私の奢りだからって!」
「え、今お相子って話にしたじゃん」
「そーですけど、出費が痛いのは変わりませんよ! 真島くんが私に餌付けして肥えさせようとするのが悪いんです! お菓子代にしようと思ってお財布に入れてたのに!」
「もはや八つ当たりだ! ……じゃあ、ポップコーンは無しのほうがいいのかな」
「え……。ポップコーンとコーラなしで、どうやって二時間過ごせって言うんですか?」
「映画観てよ!」
掛け合いながら、目の前にそびえる古びた雑居ビルを見る。触ると金臭くなりそうな手すりが据えられた急な階段の上に、映画のポスターが張り出されている。
大森さんに手抜かり抜かりはなく、映画館に入った時点で上映まで十数分という状態だった。場末の映画館、というやつで、人の入りは多くない。頻繁にテレビで特集の組まれているような映画であっても、席を七割ほど埋めるに留まっている。
大きいポップコーンを骨董品の壷のように大事そうに抱えながら、大森さんはシートを覗き込んで席を探す。
「いやーワクワクしますね。私こんなふうに異性と映画観るの初めてなんですよ」
「そうなんだ。僕は姉に連れられたことがあるけど」
「いやそういう意味では、というか真島くん、お姉さんいらっしゃるんですか」
通り過ぎそうになった大森さんに、指差して席を指し示す。僕に笑顔を見せてから、背もたれに体を寄せて慎重に入っていく小さな背中を見守る。
「いるよ。結構年上でもう働いてる」
「ほやまあ」
吐息交じりの返事にあわせて、大森さんは座椅子に腰を下ろした。ポップコーンを椅子に据え、その無事を確認すると僕を振り返って笑う。
隣の席に座って、コーラを渡す。僕は烏龍茶だ。
「大森さんは兄弟とかいないの?」
「おりませんね。どこに出しても恥ずかしくない一人っ子です」
会釈と一緒に大森さんはさらりと答えた。
ふと上演のアナウンスが鳴り、暖色の照明が落とされた。音の入らないマイクが集音する、ぼうう、という機械音がスピーカーから漏れる。
スクリーンの反射光で輪郭だけがうっすらと浮かぶ大森さんが、僕を振り向いた。
「真島くん。映画を見終わったら、感想を根掘り葉掘りうかがいますからね。もちろんマジレス禁止で」
「げ」
思わずうめいた。これは至って真面目なドキュメンタリー仕立ての映画だ。どうやってふざけろと言うのか。
くふふ、と含み笑いを転がして、大森さんは闇にも爛々と光る瞳を細めた。
「ネタを仕込んでおいてくださいね?」
無理だった。




