第五条:反感の保障に関する細則
図書室は校舎の端っこにある。
特別教室棟と呼ばれる、普段生徒はあまり用がない区画の最上階だ。
引き戸を開けて入ると、女の子がこちらに背を向けていた。肩にかかるくらいの髪を柔らかく緩ませた落ち着きのある所作は、見間違えようもなく知り合いだ。
「本多さん、こんにちは」
「こんにちは、真島くん」
本多さんは振り返りもしない。
隣に立って、細い眼鏡を掛けて神妙な表情で本を並べている彼女の横顔を覗く。
「お昼ご飯は食べた?」
「食べた」
「今は何を?」
「特集棚の準備。映画化した作家の」
「ああ、あれか。分かった」
まだポップなどは並べていない。その配置を決めている、というより、決まってその通りに並べているところのようだ。本を受け取って、本立てに載せていく。
貴重な昼休みを辛気臭い図書室で過ごそうという生徒はいないのか、ひと気はまったくない。司書さんがカウンター裏の事務で本の装備をしてくれているはずだ。
黙々と作業を進めていると、不意に本多さんが口を開いた。
「ねえ、真島くんって彼女いる?」
「キミがいるじゃないか」
「そう」
それきりまた黙々と作業に戻る。
本を重ねる物音だけが図書館に響いていく。
居たたまれなくなって、本多さんを振り返った。
「いや、冗談だよ?」
ちらりと僕を見上げて、眼鏡の奥から表情の見えない目を覗かせた本多さんは、すぐまた視線を落として手を動かし始める。
「真島くんが冗談言うなんて、珍しい」
「本多さんこそ。急にどうしたの?」
「購買に並んでるところを見かけたから」
少し考えて、「本多さんが冗談を返したこと」ではなく「そもそも質問をした理由」を答えてくれたのだと気づく。
続いて、本多さんが何を見たのかについても思い当たる。
「ああ、なるほど。大森さんは彼女じゃないよ。あれは罰ゲームみたいなものでさ」
つまり僕と大森さんが一緒にいたので、彼女が出来たのか、と尋ねたわけだ。
そして、奇しくも聞かれたばかりの質問をまた向けられたことに、内心で苦笑する。
本田 本多さんがちらりと顔を上げる。
「罰ゲームで一緒に並んでたの?」
「あ、そっちじゃなくて。牛乳プリンを買ってあげてたんだよ」
「なんで?」
「なんでって……あれ? なんでだろう」
そういえば、律儀に牛乳プリンを買ってあげる必要もない。罰ゲームと言われても、僕が納得して同意のうえで始めたことではないのだ。
いやまあ、買ってあげるとものすごく嬉しそうな顔するから、いいんだけども。
「で、冗談って言うのもその関係で。あの子に冗談を言う練習をさせられてる……させられてるっていうと人聞き悪いな。付き合ってもらってるんだ」
「ふうん? 変なの」
確かに。
思わず笑ってしまった僕を、本多さんがまたちらりと見る。
本多さんは大人しいというよりも、よく分からない人だ。
いつも無表情で、口数も多いほうではない。放っておけば本を黙々と読み続けている。人付き合いも少ないらしく、誰かと親しげに話しているところを見たことがない。
しかし、図書委員として一緒に仕事をするようになって分かったが、こう見えて本多さんは結構人懐っこい。なかなか自分から口を開かないので、大森さんと対照的に自然と僕が話しかける側になる。そして話してみると素直でいい子なのだ。
本を並び終えて、次はマークした場所にポップや張り紙をすればいい。本多さんを振り返って僕は苦笑してお願いした。
「本多さんも、冗談を言う練習に付き合ってもらえると助かるな」
「別にいいけど」
「ありがとう」
とはいえ、いきなり披露する冗談があるほど僕は口が上手くない。
結局、約束を取り付けたはいいものの、いつも通りぽつぽつと世間話を交わしながら準備や整理を片付けて、あとは昼休みが終わるまでカウンターで並んで座って、それぞれ本を読むだけだ。いつも通りだが、とても落ち着いて、気楽な時間だ。
そんなリラックスモードに入っていた図書室の扉が、勢いよく開かれた。
「たのもう」
一応小声だ。
その声は紛れもなく大森さんのものだった。カウンターから立ち上がって振り返れば、半身だけ図書室に入れて様子を窺っている大森さんの姿がある。
大森さんは僕と目が合うと、ふわりと顔をほころばせた。
「見つけました! 証言は事実だったようですね」
声は潜められている。
その声を怒るか褒めるか迷って、とりあえず脇に置いた。
「どうしたの大森さん。図書室に来るようなイメージなかったんだけど」
カウンターまで歩いてくる大森さんに尋ねる。彼女は両腕を組み、膨れてみせた。
「失敬な。私は宮沢賢治全集を読破したくらい、文学少女だったんですよ」
「あ、小学生のころ」
「お黙りくださいませ!? 墓穴掘っちゃったよっ」
「お静かに」
「む、すみませ……誰もいないじゃないですか」
「まあ図書室だからね」
「理由になってませんよ」
「別に子どものころどうだったかなんて、気にすることないと思うけどな」
「ちくしょう話逸れたと思ったのに! 嫌なものは嫌なんですよぅ!」
んもう、と身悶えする。そんなに嫌なものだろうか。小学生のころなんて、遠い昔のようなものだと思うけれど。
「……あなたが大森さん?」
本多さんが覗き込むように体を傾けて、大森さんを見つめていた。
「お、はい。そうですよ。……なにか話しました?」
答えてから大森さんは僕に顔を寄せる。
隠すことでもないので、真っ正直に答えてあげることにした。
「うん、変な女の子だよって」
「だれが変ですかっ! せめて個性的止まりでしょう!」
多少の自覚はあるらしい。
怒るふりだけ見せた大森さんは、すぐに本多さんに目を向ける。
「それで、そちら様は、えーと。どういったご関係に?」
本多さんは答えず、本に目を落とした。
「あはは。あんまり話さない子なんだ」
机の下でこっそり蹴られる。
高校生にもなって自分のフォローを他人にされては、いい気分になれないだろう。その手の過干渉に敏感なところも本多さんだ。自分を自分でしっかり守りたがっている。
そのあたりの気持ちは多少分かるので、大森さんの気を逸らす方向に話を進める。
「図書委員なんだ。同じ当番日同士として、日夜魍魎跋扈と戦っている」
「なん……だと……?」
眉間にしわを寄せて瞠目する、という微妙に難しい表情を浮かべて、大森さんは凝然と固まってしまった。
その双眸を見つめ、僕はにやりと口の端を持ち上げる。
「そう、暇という悪鬼とね」
「あ、上手いですね」
ころっと笑顔になって賞賛してくれた。
ふと見てみれば、本田本多さんがまた顔を上げている。怪訝そうに眉をひそめている彼女に苦笑し、大森さんを指差して示す。
「冗談の練習って、こういうやつ」
「……ふぅん」
つまらなそうに鼻を鳴らして、本多さんは平静な目でじとりと僕と大森さんを見た。
「ずいぶん変なことに巻き込まれてるのね」
ばっさりと一言に切り捨てられ、大森さんは「はうあ」とうめいてよろめいた。
「け、結構グサリと来ましたよ今の」
「まあ事実だよね」
「げばほァ」
ボディブローを食らったかのように腰を折り、膝を突いてカウンターの陰に沈む。
轟沈した大森さんから目を離し、本多さんを見る。彼女は本を手のひらに置いたまま、横目で僕に呆れた視線を向けている。
「わざわざ付き合うことないのに」
むしろ気遣うような調子さえある本多さんの提言に、笑って返す。
本当に不器用な子だ。人付き合いを嫌っているわけでは決してないのだけど、いつも空回りしてしまう。そういうタイプだ。
「まあ、持ちかけてきたのは向こうでも、乗ったのは僕だからね。歩み寄ってきた人を蹴飛ばすほど、無粋じゃないつもりだよ」
カウンターから体を乗り出すと、しゃがみ込んだまま見上げている大森さんと目が合う。にんまりと満面に笑みを浮かべる彼女に手を貸して、引っ張って立ち上がらせる。
「や、どうもありがとうございま……」
ふと大森さんの視線が逸れた。
「どうかした?」
振り返ると、本多さんはもう本に目を落としている。
黙りを決め込んだ貝のように、本から目を離す気配がない。大森さんは、そんな本多さんを神妙な表情で見つめていた。
「大森さん?」
「あ、いえ、なんでもありません」
大森さんは言葉通り、ころりと何事もなかったかのような笑顔を浮かべる。
それから二、三の話をして、昼休みが終わったので教室に戻った。
本多さんはもう口を開かず、二人の会話はなかった。