第三条:施行目的に関する附則
教室に戻った大森さんは、幸せそうに緩んだ顔で牛乳プリンを食べている。
席から眺めている僕の視線に気づいた彼女は、スプーンを持った手でサムズアップを見せてきた。苦笑とともに手を振り返しておく。
由良川が悪辣な笑みを掲げて忍び寄ってきた。
「よう、楽しそうだな」
「馬鹿言え。いきなりでワケ分かんないよ」
お握りとオカズを丸めた包みをカバンから引っ張り出す。由良川は封を切った菓子パンを片手に、椅子を引き出してどさりと腰を下ろした。
「分からなくても、楽しんでるだろ? 正直」
由良川を見た。中学生のころから見慣れている彼の顔には、はっきりと傍観を楽しむと書かれている。
妙に確信のこもった彼の言葉に、なんと答えたものか迷った挙句、僕は観念した。
「……まあね」
頬杖を突いて、窓枠に詰まった桜の花弁を見る。薄紅色も柔らかに乾燥し、縮んでしまっている。埃にまみれていて、見るも無残な有様だ。
真面目堅物、手堅くやっていくことは、悪いともつまらないとも思わない。
けど、型にはまりきったのもどうか、という思いを拭い去ることはできなかった。
せっかくの高校生活なのだから、もうひと欠けら、もう一歩だけ。
ワクワクするような、どきどきしてしまうような、きらきらした何かがあってもいいじゃないか。
ふう、とため息をついた。
「……我ながら、血迷ってるなあ」
苦笑に緩む頬を、頬杖に隠す。
由良川は足を組んで、窓枠の柱にもたれかかった。
「たまには、いいんじゃねーの」
「いー加減なことばっかいうよな、お前」
「まあな」
ひへへ、と変な声を上げて由良川は笑う。
しょうもない友人から視線を外し、教室の後ろにいる大森さんを横目に見た。
大森さんも友人と机を寄せて、花柄のランチョンマットに包んだままの弁当箱を横に置き、食べかけた牛乳プリンを痛恨の表情で見つめている。笑ってしまって声を殺す。
まあいいか、と僕も思っていた。
そういう冒険があってもいい。悪ふざけ、というやつだ。
たまにはね。
安普請のアパートは壁が薄汚れて、よく見ればヒビがうっすらと入っている。
昔懐かしいとすら思える鉄筋造りの階段を上がって二階の真ん中。経年劣化で茶色に染まりきった壁紙と、ワックスがけをサボった誰かの残した傷でテカテカと光る板間の部屋には、布団を片付けたコタツ机が配置される。キッチンには油染みの残るコンロがあり、間仕切り戸はうるさくて動かせない。
古式ゆかしい2DKの姿がそこにある。
これは昭和風映画の撮影所ではない。
現役バリバリで僕の家だ。
家中のどこに行くにもあっという間、という最大のメリットも、家族の帰宅も済む九時十時には消滅する。
「うはははは」
風呂から上がってスウェットに着替える間も聞こえる笑声にげんなりしながら、僕は居間を覗き込んだ。
胡座をかいて肉じゃがに箸を刺しながら発泡酒を握る姉が、お笑い番組を見て大笑いしている。
いつもなら騒ぎすぎないよう一言言うか、水を注さずに立ち去るところだが、今日は居間に踏み込んだ。素足の下でざらついた板間が軋む。
「……そんなに面白いもんなの?」
「うぇ? おー。珍しいね、仁ちゃんがお笑いに興味持つなんて」
傾けかけた缶のフチをくわえて、姉さんが嬉しそうに口の端を持ち上げた。
「ちゃんはよせって。ちょっと友達と話題に出ただけだよ」
言い返しながら卓に着く。
どうせこの番組が終わるまで姉さんは風呂に入らないし、風呂に入るまでは笑い声がうるさくて寝れたものではない。
「ぅう? わはははは」
画面を見て姉さんがまた大笑いする。
二人の男が居酒屋の店員と客に扮して会話をしているようだった。
「今の、どこが面白いの?」
「あん、バーカ。そういうことは聞いちゃダメなの。素直に観んさい」
それだけ言ってテレビに目を戻した姉さんは、あぐ、と肉じゃがを頬張り、直後に笑い出して盛大にむせた。
いつものことなので放っておいて、僕は卓に頬杖を突いてテレビを眺める。
コンビの出番は終わったらしく、半裸の男が舞台に出てきていた。出てきて早々、よく分からないことを叫ぶ。脈絡がつかめない。
結局番組の終わりまで眺めたままで、笑いどころが分からなかった。
気を張りすぎて、呼吸の間合いから芸人の笑わせようとする意図や方法を分析してしまっていたからだろう。素直に観ろという姉の言葉が思い出される。
ウィットの利いたユーモラスな切り返し、とやらは、やはり僕には難しそうだ。
「お早うございます!」
朝の教室に入って早々、でかい声が掛けられた。
まだ始業までかなり余裕があるため、人の数も少ない時間帯だ。にもかかわらず、大森さんは元気いっぱいな様子だった。
「大森さん。お早う」
鞄を机に置きながら挨拶を返す。
僕の席に近づいてくる大森さんは、むうっと顔を膨らませてしまった。
「……んもぅ、いきなりマジレスですか! もうちょっとこう、面白いこと言おうーっていう意志を見せて欲しいですね!」
「朝から?」
「戦闘はもう始まってるんですよ!」
くわっ、と瞠目した大森さんは、過酷な戦いを生き延びた新兵のような顔で叱咤する。微妙にエア突撃銃を持っている気がする。
僕は少し考えて、出るに任せる。
「じゃあ……頭が高い?」
「へへェーッ! すいやせんっしたァ!」
見てて気持ちよくなるほどの土下座。
床に近い距離から不死鳥のように舞い上がり、大森さんは僕の胸をどつく。
「て、唐突すぎます! もう意味分かんないじゃないですか。会話が成立しませんよっ」
「うーん、ダメか」
「いえ、じゅーぶん合格です。言わなきゃ始まりません。この調子で頑張りましょう!」
おー! とやけに嬉しそうに腕を振り上げる。
さすがにもうノリについていけず、苦笑するばかりだ。
「よー、なんか面白いことやってんねぇ、委員長」
「ともちゃん」
大森さんがその少女を振り返る。
長い黒髪を背中に流し、切れ長の目を細めて無駄に不敵な笑みを浮かべている。
ともちゃんさんの顔には、見覚えがあった。
同じクラスではないが、大森さんの友人でたびたび教室を訪れている少女だ。昨日も大森さんと昼食を共にしていた。
「僕は学級委員をしたことはあれど、委員長の経験はないよ」
「えーただいまの時間、真島くんはーマジレス禁止となっております。マジレスはご遠慮くださいませー」
駅員のアナウンスみたいな節の付いた声で、大森さんは婉曲表現をした。すっかり油断していた。今のは完全にマジレスだっただろうと僕でも思う。
ぷはは、とともちゃんさんは笑っている。
その笑い声を恨めしく思いながらも、僕は片手だけで仏の印相を真似るかのように、器を持つ手を作って大森さんに見せる。
「もしかして、これ?」
「ええ、これです。残念ながら」
大森さんは神妙な顔を作って僕と同じ手の形を見せ、然りと顎を引いた。
「またか……」
やっぱり牛乳プリンらしい。
僕の苦渋の表情を、無責任にともちゃんさんが笑っている。
「いやあ委員長も付き合いがいいね。えーみんの馬鹿な企みを真面目に取り合うなんて」
「馬鹿言うなしィ」
「馬鹿馬鹿しいわい」
じとっとした目でお互いを見る二人の息は合っている。冗談を言い合う仲、というやつで、要するに僕はこの辺りを目指せばいいのだろう。
ちょっと言葉を選んでから、口を開く。
「別に僕は、冗談を全面的に禁止にしようと企んでいるわけじゃあないよ」
「そらそーだ。いやさ、でも根本的にそーゆーの受け入れられるやつと、どーにも無理なやつっているじゃん。真島は後者だと思ってた」
「僕も後者だと思うよ」
「校、舎……? 真面目の権化みたいな?」
大森さんはきょとんとした顔で、小首を傾げていた。
なんとも言いかねる僕に代わり、ともちゃんさんは露骨に呆れた表情を作る。
「あんたの顔でニュアンスは分かった。学校じゃなくて、後の者って書く後者ね。後者が分からんで、なんで権化が分かんのよ」
「えへへ」
「褒めてない」
くねくねと体を抱いて照れる大森さんを、ともちゃんさんは一刀両断した。
その打てば響くような阿吽の呼吸に呆れながら、僕はまた別のところにも呆れを抱く。
「今さらなんだけど、僕ってほかのクラスでも真面目で通ってるんだね」
「あー、まあね。成績優良できちっとして眼鏡で学級委員じゃ、そりゃむしろ驚くもん」
「そんなもん?」
「そらそーよ」
そっか。なんか空しい。僕は真面目しか取り得がないみたいだ。
「あ、そだ。委員長、質問」
不意にともちゃんさんが小さく手を挙げる。
「どうぞ」
「どうも。好きな子いる?」
大森さんが吹き出した。いきなりなんだ。