第二条:律令違反における罰則
お昼休みになるとほぼ同時。
大森さんが再び来襲した。
「真島くん。すでに私のところに、授業間の休み時間に行ったとされるマジレス報告が六件も上がっています。嘆かわしいことです」
報告書のようにレポートを束ねて持って、眉間にしわを作って首を振る。薄い紙束は先ほどの生物で返された小レポートだ。
僕は思わず眉間にしわが寄った。誰だよ、密告した愉快犯。
大森さんは無駄に厳めしい顔で目を細め、レポートを小さく折りたたんで懐にしまう。
「ですが、疑わしきは罰せず、と申しましょう。私自らが立会いのもとで行われたマジレスではありませんので、特別にグレーゾーンと致します。……禁止令は、禁止だから禁止令なんですよ! 私がいないときは無効、なんてものじゃないんですからねっ!」
「そんな無茶な」
「無茶なことはありません! 真島くんだってやればできる子なんです!」
突然モンスターペアレント風の言葉遣いになって僕のフォローを始める。
いや、この場合フォローされても迷惑なだけなんだけれど。
椅子を傾けて背もたれを僕の机にがたんとぶつけながら、由良川は楽しそうに口元を緩ませて僕を振り返る。
「なあ真島、お前昼飯どうすんだ?」
「どうって、いつも通り弁当だけど」
「マジレス禁止ェア!」
「ギャアアア!」
大森さんが嬉々としてクロスチョップを叩き込んできた。
いやこれが叩かれても全然痛くはないんだけど、思わず悲鳴を上げてしまう。
その僕の手を取って、大森さんは引きずるように腕を引っ張った。
「さあ真島くん、罰ですよ牛乳プリン! 急ぎましょう!」
ふにりとした細くて柔らかい女の子の指に緊張してしまう。
我ながら情けないと思うが、同年代の女の子と気安く接触する経験なんてない。
その手の緊張とは無縁そうなご機嫌な笑顔の大森さんが、僕を椅子から立たせる。軽くバランスを崩して隣の机にぶつかりそうになりながら、教室後方の扉に向けて急がされる。
「ちょ、本当に買わなきゃいけないの?」
「モチロンです! 二個買ってくれてもいいんですよ? そしたら一個分けてあげます」
「それ自分で買ってるのと変わらないよね?」
「マジレスツッコミはセーフ!」
高らかに謳う大森さんにぞっとする。今の一言ですらマジレス判定食らうのか。
引っ張られながらも首だけひねって振り返ると、席に座ったままの由良川が「お幸せに」と口パクで言って緩やかに手を振っている。復讐を誓う僕を、スキップ寸前の弾んだ足取りで大森さんは引きずっていく。
教室を出て、昼休みの喧騒で人が行き来する廊下に出た段階で、諦めがついた。学年棟を行き来する人々を見ると、うるさく騒ぐ気も失せる。
窓から差し込む光もどこか埃っぽい。
いざ諦めてみると、動物園で小動物に餌をあげるような気持ちが湧いてきて、全然構わないどころか楽しみなような気がしてくるから、不思議なものだ。
僕の左一歩前でトットコと足早に歩いている大森さんに目を向ける。
「そもそもマジレスじゃない返事って言われても、具体的にどんなものがあるわけ?」
む、と僕を振り返った大森さんは唇をへの字に曲げた。
「そこから解説が必要です?」
なんだか僕が、会話もろくに出来ないとんでもなくつまらない人間のように思えた。
「いや、いざ言われてみると分からなくなって」
慌てて手を振りながら付け加えたら、余計に言い訳臭くなってしまう。
大森さんは歩みを緩めて、僕の対人能力について言及せずに、人差し指を立ててふりふりと揺らしながら真面目に答えてくれた。
「難しく考えることありませんよ。混ぜっ返したり、ウィットに富んだ切り返しをしたり、ひと捻り加えたり。冗談を交えれば大体オッケーです。あ、でも突拍子もないことを言い過ぎて会話が成立しないのはダメですよ。返事じゃなくなってますからね」
「はあ……」
よー分からん。
「というか、大森さんってなんでそんな待遇表現なんか使ってるの?」
「だって真島きゅんコエーっすもん! ……というのは冗談として、いや、なんでかな。なんとなく? そーゆーノリだった気がしたのです」
きゅんってなんだよ。
呆れて目を向けると、僕が窓側を歩いているせいか、にひ、と目元を緩ませる大森さんの瞳が妙にきらきらして見えた。思わず顔を逸らしてしまう。
購買部が設置されている広間には、すでにちょっとした行列が出来ていた。気だるそうに並ぶ生徒たちに、埃をかぶって色の白んだ電灯がぶれる影を与えている。
購買のパンはコンビニにも並べられないような安物菓子パンや惣菜パンで揃えられていて、決して美味しいわけではない。単純に味に見合った安さなので、適当に済ませようという生徒が利用しているだけだ。
その数少ない人気商品が、特選まろやか牛乳プリン二四八円、というわけである。
行列の最後尾に並んですぐに、後ろにも生徒がついてしまった。こんな品揃えの購買部であっても、一定の人気は保っているらしい。
体を傾けて牛乳プリンの在庫を覗こうとしている大森さんを見る。
「ねえ大森さん」
「あ、ダメですよ大森さんなんて堅苦しい呼び方! もっとチャ~ミングでキュ~ティクルなあだ名で柔らかくふんわりと」
「なんで急に禁止令なんて言い出したの?」
「無視ですかまたそんな高等テクを。……はい。だから、真島くんは堅物すぎるって」
テンションを落ち着かせた大森さんが説明しようとする前に、手のひらを見せて遮る。質問の方向性が違っている。
「そうじゃなくて。なんで大森さんが、僕にそんなことをするのか、が分からないんだ」
う、と声に出して半笑いで顔を強張らせた大森さんは、少し気落ちしたように上目遣いで僕を見上げた。大きな瞳が潤んでいるのか、屋内光でもきらきらして見える。
「……迷惑ですか?」
「そういうわけじゃないよ。言い方が悪かったね、ごめん。気になっただけなんだ」
責めるつもりはなかったのだ。
言葉を補う僕を他所に、大森さんはちょっと明後日のほうを向いて目を瞬かせている。
次に振り返った彼女は、にへらと笑顔を取り戻していた。
「深い意味はありませんよぅ。クラスメイトも二年目なのに、あんまり話をしたことないじゃありませんか。それでこう、トークのテンションを私の側にひきつけようと」
ぐいっと。柔道で襟をつかむように、大森さんは力強く空気を握る。
無理して話すこともないんじゃ、と思ったが、さすがにそれは飲み込んだ。大森さんがわざわざ歩み寄ってくれているのに、それを蹴っ飛ばすほど好き者物好きじゃない。
やっとたどり着いた購買で牛乳プリンを買い、隣の大森さんに手渡す。
オバちゃんにお釣りをもらっていると、大森さんがなにかに期待するような目で僕を見上げていた。これ以上どうしろというのか、もう一個買えとでも言うのか、と内心で狼狽していると、大森さんが身もだえしながら僕の足を蹴る。
「なんか言えよぅ! お礼ギャグも出来やしない! ありがとうございますっ!」
どうやらネタ振りだったらしい。分かるか。
わーい、と言わんばかりに購買の広間を駆けていく大森さんの背中に声をかける
「転ぶなよー!」
「子どもじゃないです!」
ぐわっと身を翻して、腕を振り上げて大森さんが抗議した。物凄く嬉しそうな顔だ。
ちょっと笑ってしまった。
なるほど。マジレス禁止とは、こういうことらしい。
僕と大森瑛美さんとの関係は、はっきり言って薄かった。
同じクラスといえど、事務的な用事がある際に二言三言の会話を交わすくらいで、挨拶さえ曖昧な距離感だ。親しいとは決して言えないし、事によっては友人と言えるかすら怪しい。
というのも、根本的にテンションが合わないのである。
あの通り一人で突っ走って猛回転してしっちゃかめっちゃかにボケ倒す彼女と、いわゆる冗談の通じない僕とでは、会話が成立しない。
ただのクラスメイト、ただの知人。その程度のものだった。
そんな彼女が、今日に至って突然あのような接触を持ちかけてきたのはまったく意外で、動機がよく分からない。
別に悪いことをしているわけでもないし、クラスメイトなのだから話すくらい気にすることもない。
そうは思うのだけれど、不思議に思ってしまう本音は仕方がなかった。