第十七条:危惧に関する対応
思いがけず強い風が吹き付ける。
フェンスに囲われた屋上から首を伸ばせば、校舎裏の植木などが見える。下には誰もいないだろう。
時計を見れば、もう約束の時間を三分ほど過ぎている。
髪の短い女の子は、肩を落としてフェンスを握っていた。
「誰も来ないよ」
声をかけると、びくりと肩を震わせて、大森さんは弾かれたように振り返る。
これ以上ないほど目を見開いていた。ぱくぱくと口を動かしている。
その口が、ようやく声の出し方を思い出す。
「真島くん! な、なんで」
僕が屋上に入ったことに、大森さんはまったく気づいていなかったらしい。
物音を極力殺して入ったのは確かだが、本当に気づかれないとは期待していなかった。
彼女の顔を見て、自分の表情が穏やかなものになっていくのが分かる。肩をすくめた。
「来ない人を待っても、仕方ないよ」
大森さんは怯えるように首を縮めてしまう。
待っていたのは、ある意味で大森さんも同じなのだろう。
しかし、僕の前に姿を現すつもりは、毛頭なかったのだ。
彼女は自分の顔を隠すように腕を上げて、うつむいてしまう。
構わずに僕は言葉を続ける。
「待つのは、もう止めにしたんだ」
大森さんは怯えるように体を縮み込ませている。小さくなり続ければ、いずれ消えてなくなると思っているのかもしれない。
そんな都合よくはいかない。彼女も分かっているだろう。
「ねぇ、大森さん。僕はきみに、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「ダメ」
大森さんが口を割った。
腕を下ろして、今にも泣きそうな顔で僕をにらみつける。
「ともちゃんから私に連絡が来たってことは、もう、知ってるんでしょ。ズルいよそんなの」
まるで駄々っ子のように、大森さんは拗ねたような口調で言った。
こんな表情もするのか、と驚いて、僕はつい笑ってしまっていた。
大森さんは顔を逸らして、かすれた声でうめく。
「なんで、ともちゃんじゃないの」
泣き虫で根暗で臆病な、何もかも拒否しているような顔を伏せて、口を動かし続ける。
「なんで、真島くんが私の前に立ってるの……」
僕はなんと答えたものか迷って、まず、脇に置くことにした。歩み寄る。
彼女は顔を上げて僕を見上げる。
その目を見つめ返して、言わなければならないことを、口にした。
「大森さん。僕は、冗談を言うに当たって、思ったことがあるんだ」
彼女は呆気に取られたように、怯えた表情を緩める。想定した言葉のいずれとも違ったのかもしれない。
このまま続けていいのか、という不安が、侵食するように穴を広げていく。
しかし、僕は彼女のために、言葉を用意してきたわけではない。
僕にとって言わなければならないことを伝えるために、ともちゃんさんにお願いして大森さんと会う機会を作ったのだ。
若干、嵌めるような形にはなってしまったけれど。
息を止めて、しっかりと大森さんの姿を見る。
顔を逸らし小柄な体を縮ませて、フェンスに埋まるように体を押し付けている。その表情を見て、焦らないように口を開く。
「冗談は、ひねったり凝ったり茶化したり……そうやって作るんだよね。だから、出どころはやっぱり、自分の中にあるものなんだ」
なぜ大森さんは僕に冗談を言わせようとするのか、という問いの、裏側。
そもそもどうして、冗談を言うのだろう。
冗談めかした言動と、ころころと変わる表情にまぎれて、彼女のことはなにも見えてはこなかった。
深く入り込む余地のない、友人という位置に彼女は自らを落としこむ。
だから、きっとそれだと思った。
「大森さんは、周りに一枚隔たりを置いた。それが冗談っていう手段だったんだね」
「分かったふうなこと言わないで。私のことなんか、何も知らないくせに」
大森さんは肩を怒らせて、涙声を絞った。
僕はうなずく。
「知らない、分からない。大森さんがなにも教えてくれなかったんじゃないか。だから、僕は君が思ってるようなことは言えないよ」
盗み見るように僕を見た。
その涙を蓄えて潤んだ瞳を見つめて、はっきりと伝える。
「それは、知らない人に対して言う言葉じゃない」
じわ、と泣き出してしまった。
言い方があまりにもきつかったかもしれない。心臓がはらはらと暴れる。
さりげなく手汗を裾で拭いて、背筋を伸ばしたまま、堂々と胸を張り続ける。
あるいはそれは虚勢と言えただろうけど、僕は、この場で迷ってはいけないと思った。
「人間、そう簡単には変われるものじゃない。とっさに嘘はつけないものだよ。冗談を言うようになったからって、僕がおちゃらけて軽薄になれるわけじゃないんだ」
本多さんには、冗談が似合わないとバッサリ言われてしまった。
タイミングや言い方はひどかったものの、学級委員も同じだ。言いにくいことを伝える、という意味では、やはり彼なりの親切だったのかもしれない。
けど、それは僕が変わることに対しての意見だ。
僕が冗談の発想を持って、いつも通りの真面目腐った委員長でいる限り。
それは「テンポがよくなった」と、その程度で収まってしまう。そんなものでしかない。
大森さんも同じだ。
ともちゃんさんは、今の明るい大森さんが無理をしていると言った。
しかし、そうではない、と僕は思う。
「大森さんの冗談は、すごく繊細で、広くて優しいと思う。小さな関連性をすくいあげて、結びつける。そんな発想をしていると思うから、聞いていてすごく和むんだ」
冗談という膜を一枚置くことで、大森さんは彼女の言葉を発する手段を手に入れた。
「大森さんは、回りのものに対して、すごく素直に感じ取る目を持っているんだと思う」
それは傷つけられると深く傷ついてしまう、ということでもある。人と距離を置こうとする気持ちは、きっとそこにあるのだろう。
でも、だからこそ、逆に目端が利いていろんなものを発見して、冗談につなげられる。
大森さんの心を、彼女の冗談はなによりも表しているのだ。
「そんな目線は、すごく素敵だと思う。誰でも持てるものじゃない、魅力的な感性だよ」
「聞こえのいい理屈を、重ねてるだけです」
大森さんは、否定してほしそうにつぶやいた。
苦笑が浮かぶ。大森さんの体は、縮こまるのをやめて、ただフェンスに背中をつけているだけになっていた。
「違うよ。僕は、大森さんといるといろんなものが発見できるみたいで、すごく面白い。落ち着くんじゃなくて、ただ楽しくなってくるんだ。こんな退屈な僕でも」
真面目堅物で、面白みのない、型にはまりきった人間。
そんな僕が、楽しいと感じる。そういう世界の見方をしている。
大森さんはそんな人だ。素直で可愛らしく、世界を美しく見つめている、羨ましい人。
「急になんて無理は言わない。少しずつでいいから、大森さんの見ている世界を、僕にも教えてほしいんだ。そうしたら――」
どうして、あんなふうに笑えるのか、不思議だった。
僕は、初めて彼女の笑顔を見たときから、思っていたんだ。
大森さんのきらきらした瞳を見て、笑う。
「僕はきっと、君のことを好きになる」
わくわくするような、ドキドキしてしまうような、きらきらした何かがあってほしい。
ずっと、そう思っていた。
ほんの一欠けひと欠けらでいいから、などと考えていた。
大森さんは、まさに僕にとってのそれなのだ。
口を引き結んでうつむいていた大森さんは、フェンスから背中を離した。
「……真島くんは、最低です」
息が震えて、大森さんは深呼吸をするように大きく肩を上下させる。
「私の気持ちを、知ってるくせに。そんなこと言われたら、そんなふうに言われたら」
責めるように、上目遣いで僕をにらみつけた。
「もっと、一緒にいたいって……思っちゃうじゃないですか」
大森さんは頬を紅潮させて、悔しそうに、悲しそうに、そして何よりも嬉しそうに、どうしようもなく笑っていた。
耳まで顔を赤くして、大森さんは顔を隠して背中を向けてしまう。
それを残念に思いながらも、僕は安堵で膝が笑いそうになっていることに気がついた。
深呼吸して、膝のうえを軽くもみしだく。
大森さんは、もしも僕が「好きだ」と言っても、絶対に喜ばないだろうと思っていた。自分を好きになるはずがない、と思っているからだ。
僕だって、そんな人に惚れるかどうか微妙なところだ。
けれど、彼女に惹かれているのは間違いがなく、その想いを僕は大切に思っていた。
僕は真面目しか取り柄がない。
嘘はつけないし、嘘は僕の目には写らない。そういう融通の利かない人間なのだろう。
顔を上げると、大森さんは目元を赤くして、にっこりと満面の笑顔を浮かべていた。
「大森さんこそ、なんで僕なんかを?」
「内緒です」
いい笑顔で即答された。
「最低な真島くんには、絶対に教えません!」
念押しして、大森さんは鈴でも転がすように笑う。
おそらく僕の顔は、相当ガッカリしたものになっていたのだろう。
大森さんは弾むような足取りで僕の脇を抜けて、屋上の出口に向かっていく。踊るようなステップで振り返り、急かすように手を振った。
少し考えて、僕は大森さんのそばに歩み寄って声を向ける。
「意地悪な大森さんは、嫌いだなぁ……」
「な、うぇえ?」
大森さんは目に見えて顔を凍らせて、挙げかけた手を引き戻してしまった。
その悲しそうな顔に笑顔を寄せて、そっとささやく。
「嘘ウソ。好きだよ」
「へぁえぅ!?」
誤って熱湯に足を突っ込んだかのように、すごい勢いで飛び退ってしまった。
両手で耳をこすっている大森さんは、茹ったかのように顔を真っ赤にして、目をいっぱいに見開いている。潤んだ目がきらきらしていた。
僕は楽しくて仕方がなく、笑顔が自然に浮かんでしまう。
「どう、この冗談」
冗談というより、からかってるだけだけど。
大森さんは僕に人差し指を向けた右腕を大きく上下させ、あぐあぐと口を動かした。
「お、お、お、鬼ですかあなたはっ! 最低、地獄の果てより最低ですッ!?」
「うーん」
ひどい言われよう、というよりは妥当な評価だ。抗弁の仕様もない。
変わりに、笑顔を浮かべて大森さんを見る。
「このところ最低って言われ過ぎて、身に付いてきた気がするよ」
「う……んああ、ほふうっ!」
大森さんは頭を抱えて苦悶した。
耳が真っ赤なところを見ると、最低が身につくということは今のような言動を繰り返す、という意味に理解したのだろう。
もしかしたら、それは間違いではないかもしれない。
大森さんの反応が可愛らしくて、面白すぎる。
僕の冗談は、また新しい方向性を開拓していくかもしれない。