第十六条:朝において被る義務
目が覚めた。
朝の陽射しがカーテンに反射して、天井に揺らめいている。
ベッドの上の体をよじって、携帯の時計を見た。五時半。アラームをセットした時間より十五分ほど早い。目を閉じようとして、諦めた。体を起こす。
空が明るんできた時間帯で、隣室の姉は当然のように寝こけている。
短く狭苦しい廊下を抜けて、台所に出る。薄ぼやと明るい居間の、死んだような静けさを眺めた。
ゴミ箱に押し込まれた不動産のチラシ、封の切られた支払い通知の封筒、暗く何も映さないテレビが、まるで眠っているかのように静謐に沈んでいる。
冷たくなっているシンクに視線を戻し、眠気で重たい息をつく。
いつもと違う朝だった。
トーストと目玉焼きと牛乳の適当な朝食を摂り、歯を磨いて洗顔を済ませて、荷物の支度を整えて、ブレザーを着て髪を整える。
そんないつもの行動であっても、時間帯が違うとずいぶんと違う印象になる。肩にまとわりつくようだった静けさを振り解いたころには、窓の色がいつも起きるころと同じ明るさになっていて、思わず笑ってしまった。
隣室の住民が起き始めた生活音が、がちゃがちゃと響き始める。それに気づいたとき、姉のアラームがごうごうと鳴り始めた。音はすぐに切れて、姉のうめき声が消えていく。放っておけば起きるだろう。
朝の時間がやってきたのだ。
洗面所でそれを知って、鏡に映る僕は頬に微苦笑を浮かべている。
生真面目で神経質そうな冴えない男。
おそらく、そういう評価が下されるのだろう、と判断する。自分の顔に客観的な印象を持つほど、僕は自分を客観視できていない。
この男を、ともちゃんさんは好きになったのだ。
例え気の迷いとはいえ、と口の中でつぶやく。そして、大森さんも。
もはや、問題は僕の気持ちに移っていた。
ともちゃんさんは、大森さんが僕を好きだ、と言ってくれた。だが、そのことはもう、関係がないと切り捨てなければならないだろう。
大森さんは僕との接触さえ嫌っている。
マイナスか、多く見積もってもゼロから、僕は大森さんの前に立たなければならない。
鏡の顔にあまり似ていない、姉のことを思い出す。
好きかどうか、結局僕は答えを見つけ出せなかった。
自分のことだけを考えて、彼女のためにしなければいけないことを怠った。だから傷つけてしまった。
向き合わなければならないのだ。
それは、僕のためでも、大森さんのためでもない。
「世界の笑顔を少しでも増やすために」
口だけで嘯いて、鏡の中の僕はにやりと笑った。
突然玄関から重いチェーンがこすれるような、鍵を開ける音がする。
ドアを開けて、よろめくようにスーツの女性が帰ってきた。くたびれたジャケットを脱ぐ彼女を、洗面所から出て迎える。
「お帰り、母さん」
「ああ、仁ちゃん……ただいま。早いね」
連日の激務でやつれているが、全力で生きている人特有の晴れがましさで、彼女は淡く緩く微笑んだ。
「夕食の残りだけど、食べるものは冷蔵庫に入ってるよ」
「ん……ありがとう」
食べる気力もない、という表情でありながら、母は律儀に礼を言う。
彼女の表情を見て、ふと、尋ねておかなければならないような気がした。
「ねえ母さん。父さんと出会って、後悔してない?」
質問に意外そうな顔をした母だが、何も聞き返さなかった。
ただ優しい目をして、ゆるく首を振る。
「してないわ」
「苦労したんでしょ」
「まあね。でも、その結果で今があるんだし、それは変えようがないんだから、否定したって仕方ないでしょ。だから、人をちゃんと好きになった自分を誇ることにしたの」
「好きになった自分、か」
「なによりも、生まれてくれたあなたたちをね」
いたずらっぽい顔で、母は片目をつぶった。
茶目っ気のある若々しい表情に、無性に気まずくなって顔を逸らす。
そんな僕から何もかも見透かしたように、母は小さく笑い声を上げた。
「仁ちゃん。頑張ってね」
「……ありがとう」
ばつの悪い思いはあったが、素直に、ありがたいと感じた。
姉が起きるよりも早い時間に、学校に向かう。
朝練のある部活動はさらに早いかもしれない、という程度の時間でしかないが、この時間でも電車の混雑は普段より少しマシだった。
電車に十数分ほど揺られていれば、高校の最寄り駅に到着する。
壁は古びているのに設備だけが新しい改札を出ると、そこで意外な背中を見つけた。
「本多さん?」
すい、と振り返った彼女は、眼鏡の奥の目を大きく見開いた。
「あ……」
落ち着いた表情と肩にかかる黒髪は、本多さんだ。彼女とこんなタイミングで会うのは初めてで、思わず笑みが浮かぶ。
「奇遇だね。いつもこんなに早いの?」
「その、今日は、たまたま」
本多さんは顔を伏せて歩いている。隣に並んだ僕をチラと見て、独り言をつぶやくように答えてくれた。
「そうなんだ。僕も今日は特別早く出たんだ」
角を曲がり、住宅街を突っ切る長い通りに出る。この緩やかな坂を上った先が学校だ。
道の先を見通しただけで、鮮やかな空の色が見えてくる。
「……なにか、ある、の?」
本多さんが微かな声で尋ねてきた。
答える言葉を思いついて、苦笑する。
「ちょっと、世界を改変させる大事な用事がね」
「……そう」
それから本多さんは何も言わず、僕も黙々と道を歩いた。
角の向こうに公園が見えて、複雑な思いが去来する。顔を戻して道の先を見てみれば、大森さんを怒らせてしまった脇道だ。
自分の情けなさを目の当たりにするようで、気分が落ち込む。
「本多さんは、さ。好きな人っている?」
息を呑んだような声が聞こえた。
本多さんを見てみると、顔をうつむけて、横顔を長い髪に隠している。
もしかしたら、彼女も今は元気がないのかもしれない。不躾に変な質問をぶつけてしまった後悔が過ぎる。
それでも、律儀に本多さんは声を返してくれた。
「……真島くんは、いるの?」
「まだ分からない」
そうは答えたが、たぶん、恋をしている。気になっている。放っておけない。
そう、とうめくような答えが聞こえて、本多さんはまた黙った。
もう話しかけることもできず、僕は黙って坂を上る。角を折れた向こうにくすんだ白の校舎が見えてくる。
校門の脇には、大山田高校、と銅で彫られていた。
「いるよ、好きな人」
本多さんがおもむろに口を開いた。
苦しそうに、寂しそうに、死んだペットの思い出を語るような優しい声音でささやく。
「そばに、いて欲しいって。寂しいとき、そう思うの」
アスファルトの黒から視線を外して、本多さんが僕を見た。
眼鏡の奥にある瞳が、思いがけずきれいに艶めいていて、思わず顔を逸らしてしまう。
「そう、なんだ」
驚くほど情けない生返事が口から飛び出た。
うん、と本多さんは顎を引く。
校門を抜けて、昇降口に向かう。校舎の向こう側にあるグラウンドから、朝練に取り組んでいる運動部の掛け声が聞こえてくる。
中庭に植え込まれている植木の葉が、しっとりと萌えていた。
春の終わりが近い。
昇降口の脇に、一人の女の子が待ち受けていた。ともちゃんさんは僕と目が合うと、腕組みを解いて寄りかかっていた壁から背中を離す。
「それじゃあ」
「あ、うん」
ともちゃんさんは短く言って、昇降口に向かう。すれ違うとき、二人は目を合わせて目礼を交わし、校舎に入っていく。
本多さんの背中を見送っていたともちゃんさんは、振り返って僕を見た。
「おはよう。気分はどう?」
「早起きは三文の徳って言うよね」
僕がそう言うと、彼女は少し面白そうに口の端をつり上げる。
首を曲げて校舎裏を顎で示し、念を押すようにしっかりと言う。
「きっちり呼びつけておいた。あと十五分くらいで来ると思う」
「分かった」
うなずく僕を見据えたともちゃんさんは、肩の力を抜いて、声の調子を変えた。
「答えは、見つかったの?」
一瞬答えに詰まる。
彼女に対し嘘も隠し事もできないと悟って、本音を吐露した。
「……正直、まだ、かな」
蹴られた。
「よくもまあ、それでここまで来れたわね」
「違うよ。僕じゃ答えは出せない」
さすがに怒らせてしまったらしく、蹴られたふくらはぎが普通に痛い。どつかれて痛いのは初めてだ。
目を眇めているともちゃんさんに、しっかりと説明する。
「大森さんは、滅多なことじゃ僕に本音で答えてくれない。分かりっこないよ」
口を引き結んでいる彼女を見つめて、正直に思いを伝える。
「だから今日、この機会に、確かめてみようと思うんだ。本当の気持ちを」
「ふうん」
ともちゃんさんは表情を変えずに鼻を鳴らした。
さすがに本気で怒らせたかと思い、若干腰が引けてくる。呼びつけてもらって、やることが自分の気持ちを確かめる、なんて、いくらなんでも我が侭が過ぎるだろうか。
しかし、そうかといっていい加減な気持ちで口先だけの告白なんて、許されない。
方向の間違った責任の感じ方は、なによりも、ともちゃんさんに対する侮辱だ。
ともちゃんさんは、にやり、と笑みを作った。
「行きなさい。うまくやりなさいよ」
なにより尊敬する友人の激励に、萎縮しかけていた心が奮わされる。
単純な自分の在りように苦笑が浮かぶ。
「ありがとう」
僕にやれるやり方で、大森さんに向き合わなければならない。
背中を叩くように押し出されて、校舎裏に足を向ける。
グラウンドの脇を抜けて、校舎を回りこむように影に踏み込む。
校舎の北側で年中日が当たらないためか、どこか湿ったような空気に変わっていた。まっすぐ生えている木と、肩を寄せ合う雑草。向かいに別の棟が建っている。薄暗く人通りのない場所をぐるりと見渡して、うなずく。
携帯の時計を見た。約束の時間までまだ余裕がある。僕は深呼吸をして、顔を上げた。
空は校舎に断ち切られて、青くにじんでいる。